こんにちは。
既にすいぶんと過ぎてしまったGWの話です。
連休の前半、福井県へ泊まりがけで行ってきました。
幾つか訪れた中から印象深かったスポットをご紹介します。
まず最初はお城、場所は金ヶ崎城です。
(福井県敦賀市金ヶ崎町)
金ヶ崎城は、1570年(元亀元年)に起きた戦国史上有名な織田信長の撤退戦である「金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口、金ヶ崎崩れとも呼ばれる)」の舞台となった有名な城趾です。
織田と同盟を結んでいた浅井の裏切りにあったため、この城に残ってしんがりを務めた藤吉郎が朝倉・浅井軍の攻撃を受けながら退却したと伝えられています。
今年の大河ドラマ「どうする家康」でも、その話が取り上げられていました。お城好きとしては一度は行っておきたかった場所ですので、今回の旅行でも井の一番で訪問先に選びました。
こちらが、敦賀港付近から見た城の遠景です。
目の前に見えるため歩いてでも行けそうですが、敦賀港からはぐるりと迂回します。やや判りにくい道を走らせ、ようやく駐車場に着きました。そこには立派な碑が建っていました。
大河ドラマにあやかる垂れ幕あり。やはり今年の主役はここでも家康ですね。
登り口にあった看板です。左側の立看板は恐らく「麒麟がくる」の時に建てられたんでしょうね。
階段をてくてくと登ってゆきます。道端には、ここにも家康・・・
階段を昇った先に見えたのが、金崎宮です。
鳥居をくぐると、このとおり立派な舞台もありました。
本殿でお参りします。
境内、社務所横にあった案内板です。周辺の配置と概要が判りやすく画かれています。
本殿左側から古城趾方面へと向う「花換えの小道」を上ります。綺麗なつつじが咲いていました。
道の途中には、尊良親王墓所見込地と記された場所がありました。南北朝時代に足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王が祀られています。金ヶ崎城に残る、もう一つの重要な歴史です。
碑がある高台から見下ろした所は、土塁で囲われた郭のような平地になっていました。
ここからもう少し上がっていった所の先端部分が最も高い地点であり、ここが主郭(本丸)でしょうか。
金崎古戦場の石塔。尊良親王、新田義貞嫡子以下、多くの将兵の霊を鎮める鎮魂碑がありました。
側に古墳も。
本郭や本丸という表記はなく、月見御殿跡とありました。それほど広くはなく、土塁など人工的な施設を思わせる遺構も見当たりません。
そして月見御殿から見たのがこの風景。敦賀湾を見渡せる絶景です。崖縁ですので、ここからの攻めは不可能と思います。
この場でしばしボーっと眺めていました。
帰りは来た道ではなく、天筒山へ向かう尾根伝いに下ってゆきました。
まず三の木戸跡がありました。木戸とは城の入口、すなわち城門があったところだと思います。
月見御殿の東、三の木戸の北までの辺りを「水の手」と呼んでいそうです。
続いて焼米石出土跡。
続いて二の木戸跡。南北朝時代はここで激戦があった、と記されています。
最後に一の木戸跡。ここでも激戦があったとのこと。
ここから二の木戸跡まで戻って、金崎宮の方に下ります。
木戸付近には堀切の跡が見られました。それにしても、この尾根伝いには、大勢の人を収容できそうな郭が存在していませんね。
急な階段を下りきると、金崎宮の境内に出られます。
「えっ、こんなとこに道あった?」という不思議な感じがします。ここを知らない人では、最初から絶対にここから行けない道ですね。
この城を訪問した感想として、有名な割には規模が小さくて遺構なども少ない城だなと思いました。複雑な縄張でマニアックに城を楽しむというよりも、南北朝時代の抗争や戦国期の織田軍のエピソードなど、歴史の息吹を肌で感じる場所ですね。
社務所で記念の御城印を購入し、この城を後にしました。
きっとよい思い出となるはずです。
では、また