こはにわ歴史堂のブログ -27ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

1121870年代の都市の様子を1880年代の様子と誤解している。

 

さまざまな近代化、文明開化の例があげられています。

 

「明治四年(一八七一)、『散髪脱刀令』を出し、男性はそれまでの髷を切り、いわゆる『ざんぎり頭』になった。華族や士族などは洋服を着るようになり、靴や帽子も流行した。牛鍋店、パン屋、西洋料理店が増え、ビールや紙巻タバコが売られるようになった。上流階級の生活に椅子やテーブルが使われるようになる。」(P293)  

「その頃の銀座の風景を描いた絵や版画を見ると、江戸時代からわずか数年後の街並みとはとても思えない。」(P293)

 

と説明されて、銀座が「馬車の行き交う街」と紹介されています。

 

「その頃の銀座」の絵や版画の何をみられたのでしょうか。

もし、「馬車」といっても、「鉄道馬車」の描かれた絵ならばそれは1882年以降の銀座を描いた絵で、江戸時代から「わずか数年」ではなく、十数年後の銀座です。

       

馬車は、浅草から新町まで1874年から1880年まで営業していました。しかし、一日六往復ですので「行き交う」というような状況ではありませんでした。

その頃の銀座の様子を描いた浮世絵がありますが、おもしろいのは、その頃はまだ着物やちょんまげの人がいることです。

 

   

煉瓦造りの都市計画、といってもまだ不十分で、一階は煉瓦、二階は木造といったものでした。        

銀座の大火の後、「不燃都市」をめざして煉瓦造りの都市計画を進めたのは由利公正でした。火災後の道路の拡幅を図ったのですが、被災した人たちが銀座にもどる時には、地価が大幅に値上がり、以前よりはるかに高い賃料が必要となってしまいました。また再建に木造を禁止したので、実際、多くの人が銀座には戻れず、他地域からのお金持ちが移住して店などをかまえることになります。

せっかく煉瓦造りの建物にしたのに、賃料が高くて空室もめだち、やはり1882年以降でないと、教科書の挿絵などにみられる「銀座の煉瓦街」は実現していません。

 

江戸時代からの「数年後」はまだ人々の生活・風俗は都市部でも江戸時代のままでした。まして農村部では太陽暦も広がらず、都市部は1880年代以降、農村部は日清戦争後でなければ「明治の空気」にはなっていません。

 

「こうしたことが戊辰戦争終結後の五年以内に行なわれたのは驚愕の一言である。しかも版籍奉還や廃藩置県を行ないながらである。」(P293P294)

 

と説明されていますが、「五年以内の」近代化の風景ではなく、80年代・90年代の風俗と混同されていて、教科書や風景画にみられるような世界は、版籍奉還・廃藩置県後、さらに10年を必要としなければ実現していません。

 

111】「富国強兵」の根幹の地租改正・徴兵令の説明があまりに希薄である。

 

「教育に力を入れ、明治一〇年(一八七七)に東京大学を設立した。この時も東京大学に入学した学生は全員が江戸時代の生まれで、当然、現代のような義務教育などは受けていない。」(P292)

 

この説明の意味がよくわかりません。

1868年に明治に改元されていますので、「明治生まれ」の人はこの段階ではわずか9才ですので、全員が江戸時代生まれであるのは当然だと思います。

義務教育はまだ存在していませんが、旧幕府時代の医学所、開成所などですでに高度な教育を受けている人ばかりで、とくに開成所錬成方出身の3人が設立年の1877年の段階で最初の卒業生(理学部化学科が最初の卒業生)となっています。

東京大学は、新しい組織として作られたものではなく、すでにあった医学所や開成所からできたものです。

また、東京大学に入学するには「東京大学予備門」で専門教育を受ける必要があり、現代のような義務教育は受けていませんが、当時では最高水準の教育を受けた人たちしか入学していません。直接東京大学を「受験」するような制度ではありません。

 

「…いわゆる『四民平等』となった。ただ、一部地域の戸籍には、穢多や非人は『新平民』や『元穢多』『元非人』と記載され、後々までも差別問題として残った。」(P292P293)

 

壬申戸籍の表記問題ですが、部落問題の研究者灘本昌久教授の研究では、壬申戸籍の「新平民」記載は広く信じられている俗説であり、壬申戸籍そのものの記載はすべて「平民」であることがわかっています。ただ、役所の役人が勝手に「書き込み」をしている例はあるようですが、戸籍そのものの様式に「新平民」というものは存在していません。しかもその例もごくわずかで、全体の1%も無いようです。

 

「地租改正によって、江戸時代には禁じられていた田畑を売買することが許され(田畑永代売買禁止令解禁)、また土地には税金が課せられることになった(地租改正条例)。」

 

明治時代の「大改革」である「地租改正」があまりにも希薄な説明で驚きです。

P292でも強調されている「富国強兵」の基礎を支える政策であるだけでなく、日本の寄生地主制を生み出し、戦後の「農地改革」まで日本の社会構造の根幹をつくり出した制度の話がわずか2行では、GHQの占領政策の意味がまったく正しく伝わりません。

 

これは徴兵令に関する説明でも同様です。

 

「海軍省と陸軍省が創設され、男子は兵役に就くことが義務付けされていた。」

 

と、一文で終わりです。

前に申し上げたように、通史はネタフリとオチが大切。

ここで「地租改正」後の社会変化と、寄生地主制を説明していないために、後の「農地改革」の説明が

 

「しかし現実には日本の地主の多くは大地主ではなく、小作農からの搾取もなかった。」(P438)

 

というような誤解されたものになるんです。

(大地主かそうでないか、搾取があったかなかったか、の問題ではありません。第十一章以降の多くの誤認と誤解は、明治時代の説明が原因のものが多く、この点はまた第十一章以降で詳細に説明したいと思います。)

 

そこまで先のネタフリでなくとも、「地租改正」と「徴兵令」の話を十分説明しないと目前の「自由民権運動」の背景の説明につながりません。

「地租改正反対一揆」、徴兵令による「血税騒動」の話がなければ自由民権運動の広がりと、不平士族たちの反政府運動との関連がなくなり、後の説明のオチがつかなくなります。

110】「鉄道開通」の驚異は、建設の早さでも海の上を走らせたことでもない。

 

「日本は凄まじい勢いで近代化へと突き進んだ。」(P291)

 

従来の教科書で説明されていた明治維新・文明開化のイメージです。

現在では、「近代化」に突き進んだのは幕末からでした。これは幕府だけの話ではありません。薩摩藩や肥前藩などもそうです。

 

開国後つくられた蕃書調所は、洋書調所、開成所と改称し、それまで医学・軍事に偏っていた「洋学」が政治・経済へと広がりをみせます。

1860年には天然痘の予防接種をおこなう民間の種痘所が幕府の直営となり、医学所と改称されて近代的医学の研究も深まりました。

留学生も多く送られます。

榎本武揚・西周・津田真道らがオランダに、中村正直がイギリスに留学することになりました。

幕府だけではなく長州藩も、井上馨・伊藤博文をイギリスに派遣します。

薩摩藩も五代友厚・寺島宗則・森有礼をイギリスに派遣しました。

 

アメリカの宣教師で医師のヘボンは、診療所だけでなく英語塾も開き、ローマ字の和英辞典をつくって日本人の教育に大きく貢献しました。

イギリス公使オールコックは、日本の美術工芸品を収集して1862年のロンドン世界産業博覧会に出品しています。

幕府も1867年、パリ万博に葛飾北斎の浮世絵、陶磁器などを出品させ日本の文化の知名度を上げることに成功しています。

民間の中に広まり始めた外国の文化・思想・技術は、しだいに人々の「攘夷」の思想への懐疑をもたらし、商人や豪商らは、藩に対して攘夷を改めるように求める者も出てきました。

彼らが経済的にも支援するようになったことが、薩摩や長州の開明化を促進させたのです。

 

ところで、日本最初の鉄道(いわゆる実験線)も実は幕末です。1865年、日本人に鉄道を紹介するため、トーマス=グラバーが長崎に約600mの区間を走らせました。

 

「明治五年(一八七二)に日本初の鉄道が『新橋-横浜』間(約二九キロ)で開通した。私はこの事実に驚愕する。鉄道計画が始まったのは明治二年(一八六九)十一月、測量が始まったのは明治三年(一八七〇)三月である(戊辰戦争が終わったのが前年の五月)。そこからわずか二年半で最初の鉄道を開通させたことはまさに驚異である。」(P291)

 

鉄道は、イギリスの方式によって建設されています。

だいたいどこの植民地でもある一定の区間を計画して認可が出て、測量・着工・操業開始まで3~5年かかっています。

ちなみにアジア最初の鉄道はイギリスによって建設されたインド(ボンベイ-ターナー間の約40)で、1849年に計画されて1853年に操業を開始しています。

日本は1869年に計画し、測量、着工、操業開始まで3年で29㎞です。

「わずか二年半で最初の鉄道を開通させたことはまさに驚異である」と言われていますが、だいたいそんなもんです。(完成の早さだけで言うならば,クリミア戦争の時など新橋-横浜の半分の距離ですが、2ヶ月で完成させています。)

日本はすでに築城(城の土台造り)を経験している労働者が多く(江戸時代、農民は御手伝い普請などに従事していた)、橋をかける工事なども日本の大工が動員されています。

この点は、他のイギリス植民地の労働者よりも習熟していました。

(ただ、多摩川にかける橋梁だけ、イギリス人の指導を必要としました。)

「いや、明治維新から4年しか経ってないのに鉄道をつくったのはすごい!」という意見もあるかもですが、それを言うならば、インドも南アフリカもニュージーランドも実は同じなんです。

まず、「自前」ではありません。資金も技術もイギリスからの提供でした。

建設の設計・指導もイギリス人(エドモンド=モレルら)、車両はすべてイギリス製ですし、運転する機関士もイギリス人、ダイヤ作成など運用もイギリス人(W・F・ページ)、燃料の石炭もイギリスからの輸入で、国産は枕木の材木くらいでした。

日本が明治時代でなくても江戸時代でも室町時代でも、おそらく19世紀のイギリスならば鉄道を敷設できたと思います。

 

日本の鉄道が「すごい」のは完成した早さでも海の上を走らせたことでもありません。

 

「経営」なんです。

 

まず、経営権と引き替えに資本と技術を提供する、という方式(植民地でよくみられた形式)を拒否し、あくまでも政府直営にこだわったこと(大隈重信が頑強に主張したこと)、そしてイギリスがそれに理解をしめしてくれたこと、に、あります。

前にも申しましたように、イギリスを初めとする列強は、世界を自分たちの都合のよいように塗り替えていて、原料供給地は植民地に、購買力がある地域は市場に、というように「役割分担」させていました。

日本は「市場」として理解されていて、「商売相手」として認めてもらえていた、ということなんです。

これはやはり、幕末にロンドン産業博覧会やパリ万博にさまざまな日本の文物が紹介され、文化の高さだけでなく、職人的技術の高さがイギリスの産業資本家たちの間に知られるようになっていたことも理由の一つです。

 

インドの鉄道は、経営権はイギリスが掌握し、原材料の輸送、現地の労働力活用・動員、用地接収など「支配」に利用されたのですが、日本は経済援助の見返りとして得られる「商売上の利益」を生むもの、とイギリスは考えたのです。

 

実際、日本の鉄道の利用客は、運賃が高額(15㎏の米40銭の時代に38銭から1円13銭ほどの運賃)であったのに1日4300人以上の利用があり、旅客収入が42万円で、貨物の2万円を大きく上回り、経費23万円を差し引いても、なんと21万円の利益をあげていました。これ、十分、先進国並の鉄道経営です。

 

「鉄道は儲かる」と政府は理解できました。

 

西郷隆盛や大久保利通など、旧薩摩藩は反対の姿勢を示していたのですが、大久保利通はさすが慧眼、試運転に一回乗って「始て蒸汽車に乗候処、実に百聞一見にしかず。この便を起さずんば、必ず国を起すこと能はざるべし」と日記(1871921)

に記し、推進派に転じました。

 

鉄道が「植民地支配の象徴」となった国と、鉄道が「近代化の象徴」となった国の違いはここにあったのです。

109】岩倉使節団に話したビスマルクの話の内容が不正確である。

 

「誕生したばかりのドイツ帝国では、鉄血宰相といわれたビスマルクに会っている。ビスマルクは一行にこう語っている。

『あなたたちは国際法の導入を議論しているようだが、弱い国がそれを導入したからといって、決して権利は守られない。なぜなら大国は自国に有利な場合は国際法を守るが、不利な場合は軍事力をもって外交を展開する。だから日本は強い国になる必要がある。』」(P289)

 

これ、私、おや?と思ったんです。

1873年3月11日にビスマルクに面会しているのですが、その時、こんなこと言ったかな? と思う箇所があったので、記録を調べてみました。おそらくこの部分だと思うのですが。

 

Bismarck führte in dieser Rede aus, dass man zwar zur Zeit die Einführung eines Völkerrechtes diskutiere, was aber schwachen Ländern bei der Durchsetzung ihrer Rechte wenig helfen würde.

Japan müsse daher versuchen, stark zu werden.

Er wünsche Japan viel Erfolg bei der Modernisierung des Landes und betonte, Deutschland beabsichtige nicht im ausdrücklichen Gegensatz zu England und Frankreich sich am Wettlauf um Kolonien zu beteiligen

 

ビスマルクは、このように忠告した。

「現在、国際法の導入を検討しているようだが、弱い国がそれを採用したからといって権利の行使の助けにならない。だから日本はまず強くなることを試みられよ。」

彼は、日本が近代化することを希望し、そしてドイツはイングランドやフランス帝国のように、植民地競争に関わるつもりはない、ということを強調した。

 

「なぜなら大国は自国に有利な場合は国際法を守るが、不利な場合は軍事力をもって外交を展開する。」

 

この一文、無いんですよ。11日の「面会」ではビスマルクは言っていないようです。

あ、もしや…

と、思って、ビスマルクの3月15日のレセプション・スピーチかな、と思って、

久米邦武の『欧米回覧実記』の記録をみてみました。

 

「方今世界ノ各国、ミナ親睦礼儀ヲ以テ相交ルトハイヘトモ、是全ク表面ノ名義ニテ、其陰私ニ於テハ、強弱相凌キ、大小相侮ルノ情形ナリ、我普国ノ貧弱ナリシハ、諸公モ知ル所ナルヘシ、(中略)大国ノ利ヲ争フヤ己ニ利アレハ、公法ヲ執ヘテ動カサス、若シ不利ナレハ、翻スニ兵威ヲ以テス、小国ハ(中略)以テ自主ノ権ヲ保セント勉ムルモ、其翻弄凌侮ノ政略ニアタレハ、殆ト自主スル能ハサルニ至ルコト、毎ニ之アリ、是ヲ以テ慷慨シ、(中略)一国対当ノ権ヲ以テ外交スヘキ国トナラント

 

「大国ノ利ヲ争フヤ己ニ利アレハ、公法ヲ執ヘテ動カサス、若シ不利ナレハ、翻スニ兵威ヲ以テス」

 

これですね。

 

岩倉具視使節団が311日にビスマルクとの面談で言われた言葉と、315日の宴席でのビスマルクの演説の一部を、だれかが混入して(意図的か誤ったのか不明ですが)、インターネット上で「出回っている」うちに、定着してしまった「言葉」だと思います。

 

実は、インターネット上の説明には、近現代の説明になればなるほどこのような原文には無い表現や誰が言ったかわからぬ話を「混入」させているものが増えていきます。

 

特定の出来事に関する評価は自由ですが、その出来事が誤った事実に基づいていたなら、そこから生まれる歴史観も評価も誤りになります。

 

ところで、3月15日の演説は、当時のヨーロッパとプロイセンの置かれていた立場をふりかえって(「本日ノ享会ニ於テ、侯親ラ其幼時ヨリノ実歴ヲ話シテ言フ」と前置きして)話したもので、日本のことを言っているのではありません。

 

「軍事力をもって外交を展開する」のはイギリスやフランスのことでした。

ビスマルクは、すぐれた外交を展開し、ドイツ帝国を成立させた後は、ヨーロッパに勢力均衡による平和な状態を創り出し、その間に経済発展を進める、という「ビスマルク体制」をつくりだした人物です。

「軍事力にモノを言わせる」というのはビスマルクのイメージにすぎません。

 

このレセプションでビスマルクの隣に座った木戸孝允は、ビスマルクから「両国の親睦に必要ならドイツから有能な人材を送ってもよい」と言われています。(『木戸日記』明治六年三月十五日)

しかし、ビスマルクは軍事援助など申し出ていません。経済発展に必要な人材の提供を申し出ているのです。

3月11日の面談のときに使節団に対して直接話したビスマルクの言葉の中には、「軍事力」という「単語」はありません。

あるのはModernisierung(近代化)という単語です。軍事力や軍隊を意味する単語であるWaffenArmeeTruppeも出てきません。

108】岩倉使節団はもともと条約改正交渉が目的ではなかった。

 

「まずアメリカに渡った一行はアメリカ政府の政治家や役人たちに歓待され、『これほどの歓待ぶりなら、条約の改正など快く受け入れてくれるだろう』と期待を抱いた。しかしいざ交渉に入ると、まったく相手にされず、彼らは大きなショックを受ける。明治の重鎮たちは、国際社会も『外交』も知らず、国際条約というものを甘く考えていたのだ。」(P288)

 

と説明されていますが、ドラマや小説でもよく誤解されて説明される部分です。

 

そもそも岩倉具視使団は、条約改正交渉するつもり無く出発しています。

安政の諸条約は、明治五年五月二十六日(1872年7月1日)が協議改定期限でした。

しかし、国際法に基づく国内法が整備されていない現状での条約改正交渉は、「不平等の改正」ではなく「不平等の強化」につながる可能性がありました。

 

実は、この段階での「不平等条約」は、安政の諸条約締結時、さらに改税約書締結時よりもさらに不平等な条約になっていたのです。

これこそ学校が教えない日本史。

「幕府が結んだ不平等条約」という印象を明治新政府が宣伝したため、誤解されていますが、明治新政府が改正しようとした不平等条約は、明治新政府が結んだ不平等条約なんです。

 

1869年にはドイツ帝国ができる前のドイツ(北ドイツ連邦)と条約を結んだのですが、なんと沿岸貿易の特権を認めてしまっていました。

さらに同年、オーストリア=ハンガリー帝国と日墺修好通商条約を締結してしまいます。これがなんと、それまで日本が諸国に認めてきた利益や特権に「施行細則」を付加したもので、解釈によってあいまいに運用できた項目が、すべて日本に不利なように規定されてしまいました。治外法権の内容も安政の諸条約よりはるかに日本に不利な内容にさせられてしまい、「片務的最恵国待遇」によって他国にもすべて適用されたのです。

こうして以後の改正目標は「日墺修好通商条約」となりました。

 

改めて整理しますと、幕府が締結した安政の五ヵ国条約は、治外法権にせよ関税自主権にせよ、それほど不平等なものではありませんでした。当時の水準で言えば、清が諸外国と結ばされた南京条約、天津条約、北京条約に比して不平等ではなく、とくに関税率についてはむしろ国際水準並でした。

ところが長州藩の無謀な下関戦争の「しりぬぐい」をさせられる形で「改税約書」を調印させられ、そこから経済的にもかなり不利な状況に陥ることになります。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12435563481.html

 

そして新政府が1869年に北ドイツ連邦への特権付与、日墺修好通商条約の締結を行い、「完全な不平等条約」を押しつけられることになったのです。

 

このように、以後の新政府の条約改正交渉の「標準条約」は安政の諸条約ではなく、「日墺修好通商条約」です。

 

さて、岩倉使節団は、この「失敗」を繰り返すわけにはいきません。

国際法と国内法の整備が終わるまで、「協議改定期限を延期してもらう交渉」に出かけたのです。

ですから、正確には、岩倉具視使節団の目的は「条約改正交渉の延期」でした。

 

ところが、アメリカに着いてから、駐米代理公使の森有礼、アメリカの駐日公使デロングが条約改正の本交渉を始めてもよいのでは?と提案し、伊藤博文もこの話にのってしまったんです。

使節団の目的に「条約改正交渉」が付加されたのは、アメリカに渡ってからでした。

明治天皇の委任状が必要であると言われ(国書ではありません。よく国書が無かったから拒否された、と説明する場合もありますが誤りです)、それを留守政府に発行してもらいますが、交渉を始めると内地雑居の商人と輸出関税の撤廃を要求され、他国からはアメリカとの単独交渉を非難されてしまい、結局、改正交渉は以後の訪問国では一切行わないことになりました。

 

「明治の重鎮たちは、国際社会も『外交』も知らず、国際条約というものを甘く考えていたのだ。」(P288)

  

と、説明されていますが、これはちょっと辛口にすぎます。

もともと条約改正交渉するつもりはなかったのに、森有礼や伊藤博文の勇み足で失敗しただけです。

「外交」も「国際条約」も十分理解していたがゆえに、使節団と同じ時期に以下の重要な外交問題(条約改正よりもある意味重要)を手際よく解決しています。

これもまた学校が教えない日本史ですが…

 

まず、江戸と横浜を結ぶ鉄道敷設権がアメリカに認められていたのですが、これを撤廃させることに成功しています。

次に北ドイツ連邦(プロイセン商人ガルトネル)に与えてしまっていた北海道七重村(当時)300万坪の99年間契約の租借地の回収に成功しています。

さらに、幕末グラバーが利権を得ていた高島炭坑の鉱山権益が、オランダに売却されていたのですが、この回収にも成功しています。

また、横浜における外国軍(英・仏)の駐留も無くすことに成功しました。

 

鉄道敷設権、租借権、鉱山利権、軍駐留権というのは帝国主義諸国が植民地や支配地域に適用する「四大権益」なのですが、これらを明治初期に退けられたことは、後の日本の近代化、富国強兵、殖産興業にとってたいへん大きな意味を持つことになりました。

 

明治新政府は「外交も知らず」「国際条約を甘く考えていた」のでもありません。