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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

117】憲法作成に関して、聖徳太子以来の日本の政治思想を深く研究していない。

 

「大政奉還までは、徳川将軍が諸侯の上に君臨し、全国に三百近くあった藩では、農民や町人は、殿様が行う政道に何一つ口を差し挟むことができなかったのだ。」(P301)

 

と説明されていますが、すでに「享保の改革」の説明のときに百田氏ご自身も「目安箱」の例をあげて説明されていますし、この説明の誤解を以前にさせていただきました。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12432231531.html

 

また、庶民が政道に口を挟んで、幕府がそれを変更する、ということは実はけっこうあります。(『大井川に橋がなかった理由』松村博・創元社)

天保の改革の前の「領知替え」などは領民の反対で実行できませんでした。

 

「それが、わずか十年で『自分たちも政治に参加させろ』と声を上げるようになったのだ。日本の民権運動と憲政の実現は、この後の世界史にも深く静かに影響していく。」

 

と説明されています。

まず、世界史に影響を与える前に、「自由民権運動」が世界史の影響を受けたものである、という説明をすべきでした。

文字通り、明治六年に「明六社」がつくられ、西洋思想が広く紹介されるようになり、「天賦人権思想」が取り入れられるようになります。

自由民権運動は、反政府運動としての性格を持ち合わせていましたが、こういった思想の浸透があったからこそ、広範な国民運動になりえました。

 

また、官有物払下げ事件の影響で、大隈重信が政府をやめた「明治十四年の政変」の説明もないため、大隈重信が「立憲改進党」を設立した背景もわかりません。

 

P302P303にかけて「帝国憲法」の説明がされていますが、少し不思議な記述があります。

 

「政府は憲法作成に際して、ヨーロッパ各国の憲法を研究するとともに、聖徳太子の『十七条憲法』以来の日本の政治思想について深く研究し、立憲君主制と議会制民主主義を謳った憲法を作成した。」(P302)

 

聖徳太子以来の日本の政治思想について深く研究し、大日本帝国憲法に反映したのでしょうか?

「告文」、いわゆる憲法の前文の言葉に反映されている、と言いたいのかもしれませんが…

 

皇祖皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク…

 

「天壌無窮ノ宏謨ニ随ヒ惟神ノ寳祚ヲ承継シ…」という表現は、『日本書紀』からの引用です。

「謹んで皇祖皇宗に言わせていただきます。いつまでもいつまでも続いていく天地のように、いつまでも続く先までの心構えに従い、神の皇子の位を継ぎ、これまでの伝統を維持し続けて、放棄したり別の方法をとったりいたしません…」

 

読めばわかりますが、告文の他を読み進めても、天皇がご先祖様に誓って、ちゃんと正しい政治をします、と約束しているもので、とくに聖徳太子以来の政治思想が反映されているわけではありません。

そもそもかんじんの条文が、「天皇」「臣民権利義務」「帝国議会」「国務大臣及枢密顧問」「司法」「会計」「補則」の7章構成で、きわめて近代的な内容説明になっています。

大日本帝国憲法の検討過程で、ドイツやベルギー、フランス第二帝政の研究をしていることは史料的にも十分確認できますが、日本の政治思想の研究をしている様子はありません。

 

「明治二二年(一八八九)二月十一日、『大日本帝国憲法』が公布されたが、これは明治天皇が憲法作成を命じてから実に十三年の歳月をかけて作られたものである。」

 

と説明されていますが、憲法研究に伊藤博文が赴いたのは1882年で、政府の憲法草案作成作業は、1886年から極秘のうちに進められました。

ドイツ人顧問ロエスレルの助言を得ながら、伊藤博文を中心に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らが起草にあたりました。

憲法草案は、1886年、ロエスレルとモッセの助言を得た井上毅が作成し、1887年6月に書き上げています。

作成メンバーは限られていて、宿屋を借りて作成したところ、草案原稿を入れた鞄を盗難される、という事件まで起こっています。

後に日本国憲法の制定を百田氏は、わずかな期間でわずかな人数で作成したと批判されていますが、大日本帝国憲法も同様、比較的短期間に、外国人顧問のもと、わずかな人数で作成し、西洋的・近代的な憲法として作成されています。

 

おそらく、1876年の「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発したときから「十三年の歳月をかけて」と言いたいのかもしれませんが、これは「外国の憲法を研究せよ」という命令で、各国の憲法を研究し、「国憲按」が作成され、大隈重信も意見書をつけましたが、内容は後の大日本帝国憲法とはほど遠く、君主権の制限や議会の権限が強いことから、岩倉具視・伊藤博文の反対にあって採択されることはありませんでした。

こうして明治十四年の政変で、大隈重信が罷免され、伊藤博文を中心に憲法草案作成が仕切り直されることになったのです。

このように、最初に出された案が、政権中枢の意に沿わないからと退けられて、改めて新しくつくられる、というのは大日本帝国憲法も日本国憲法も同様です。

 

「この憲法では、天皇は『神聖不可侵』とされていたことから、戦前の日本は、教祖を崇める危険なカルト集団であったかのような誤解が流布している。」(P302)

 

と説明されていますが、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という項目も、実はフランスの憲法(1814年6月発布)に記されたものを参考にしていて、この部分はプロイセン憲法とは異なる部分です(制限選挙規定もフランス1814年憲法を参考にしています)

この部分をいったいどなたが「教祖を崇める危険なカルト集団」であった証として誤解を流布されているのでしょうか?

「国王の神聖」「皇帝の神聖」というのは、19世紀のヨーロッパ君主制ではありがちな説明ですから、少なくとも諸外国は日本を「カルト集団」などと思うはずがありません。(日本の政治家でそのような指摘をしている方がいるのでしょうか…)

 

「その統治権は無制限ではなく、天皇もまた、憲法の条文に従うとされていた。」(P302)

 

という説明はまったく同感です。

大日本帝国憲法は天皇主権で、統治権が無制限であるかのように誤解されがちですが、第四条に明記されているように、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」とされています。

 

しかし同時に「天皇大権」という権限が明記されていたことも忘れてはなりません。

宣戦布告、講和、条約の締結など議会の制約をまったく受けない、というのは他の立憲君主国にはない際だった特色です。(議会による制限を極力排除すべきと提言したロエスレルの意見が反映されている箇所です。)

 

「憲法制定と内閣制度の確立により、日本はアジアで初めての立憲国家となった。」(P303)

 

と説明されていますが、現在ではこのような説明はあまりしません。

このような説明をしないか、したとしても「アジアで初めての『本格的な』立憲国家」という含みのある表現にするようにしています。

というのも、オスマン帝国がタンジマート(恩恵改革)の結果として1876年にミドハト憲法を成立させているからです。

ただし、1年ほどで停止されているので「本格的」とはいえません。

また、チュニジアのフサイン朝ムハンマド=サーディク=ベイの治世下、1861年1月にも立憲君主制の憲法が制定されています。こちらも3年後、フランスの圧力で停止されていますからやはり「本格的」とはいえません。

 

「本来、憲法というものは、その国の持つ伝統、国家観、歴史観、宗教観を含む多くの価値観が色濃く反映されたものであって然るべきだ。ところが日本国憲法には、第一条に『天皇』のことが書かれている以外、日本らしさを感じさせる条文はほぼない。」(P411)

 

と、説明されています。

近代的な憲法は、権力を法的に制限するもの(『憲法学』芦部信喜・有斐閣)ですから、その国の持つ伝統、国家観、歴史観、宗教観が反映されていてもかまいませんが、それが法を超えるものであってはならないのは言うまでもありません。

この点、大日本帝国憲法も第四条で天皇の統治権すら制限していることを明記していますし、法律之範囲内という留保はあるものの自由権も規定していますから、その点、近代的な憲法といえますが、告文に『日本書紀』以来の説明が記されている以外、「日本らしさを感じさせる条文はほぼない」ともいえます。

 

116】西南戦争の歴史的意義の説明が誤っている。

 

士族の反乱なのですが…

 

「明治九年(一八七六)から全国各地で、新政府に不満を持つ士族の反乱が続いていたが…」(P298)

 

と、説明されていますが、「明治六年の政変」で、薩摩・長州閥と土佐・肥前閥の対立の象徴として、江藤新平が井上馨を辞任に追い込んだ話をあげられているのに、士族の反乱としての1874年の佐賀の乱に触れられていないのが不思議です。

 

また、明治九年から始まる士族反乱の背景の説明がほとんどありません。

廃刀令が出されたことを引き金に起こった敬神党(神風連)の乱の話もありません。

「新政府に不満を持つ士族」と説明しているのに、士族が何に不満を持っているのかが何も伝わらないのです。

 

やはり、以前に説明したように、「徴兵令」・「地租改正」の説明が不十分で、

薩摩の近衛が徴兵令に反対していたのに山県有朋らがこれを推進したことが明治六年の政変の背景の1つになっていたことが抜けていたり、学制や徴兵令の負担を不満に思っておこった血税騒動にふれていなかったりしたことが、大きな原因です。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12439535011.html

 

これに廃刀令、士族の俸禄打ち切り(金禄公債証書の発行)が重なり、士族の不満が一気に表面化したのです。

 

「西郷は留守政府の一員でもあり、板垣や江藤らと行動をともにして多くの改革をなすうちに、藩閥を超えて考えを同じくしていたのかもしれない。」(P295)

 

という説明も史実をふまえていない百田氏の推測で、板垣と西郷の征韓に対する考え方は真逆です。また、山県有朋が山城屋事件で追及されたときも、西郷が山県をかばい、これをかばいきれなかった後悔を大久保利通に侘びています。とても江藤と西郷が考えを同じくしていたとはいえません。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440007016.html

 

「しかし、反乱軍はその年の九月には政府軍に鎮圧され、西郷自決し、戦争は終わった。以後、士族の反乱は途絶えた。ここに戊辰戦争から十年続いていた動乱の時代が終わりを告げ、明治政府は盤石の体制を築くことができた。」(P298)

 

と説明されていますが、実は、西南戦争は、明治政府を経済的に苦境に陥れ、「盤石の体制」どころか、財政の根幹を揺るがしてしまいました。

1880年代の大隈重信、松方正義による経済改革を余儀なくされ、後の明治政府の経済政策に大きな影響を与えることになります。

西南戦争の戦費は当時の税収4800万円のうち、4000万円をこえていました。

「破綻」といってもよいと思います。

このため、政府はできたばかりの国立銀行に不換紙幣を発行させます。幕末以来のインフレーションにみまわれ、地租による税収も大きく目減りしました。

1880年、大蔵卿の大隈重信は緊縮財政を展開し、大幅な増税をおこないました。酒税などができたのはこの時です。官営工場の払い下げは、一般的には殖産興業、つまり産業を発展させるため、と説明されがちですが、もう1つの大きな理由として財政難解決のための売却の側面がありました。

その方針を引き継いだ松方正義も、増税・緊縮財政をおこなって徹底したデフレに誘導します。世に言う「松方デフレ」というものです。こんどは大デフレとなりました。

この結果、繭価・米価が暴落する一方、困窮した小農は、地主に土地を売却して小作人となり、小作農率が四割から五割に増加しました。

小作率五割の状態で「現実には日本の地主の多くは大地主ではなく…」(P438)と説明するのは無理があります。

大地主は貸金業や酒造業など資本主義経営をおこなって富裕化する一方、小作人の中には都市に子弟・婦女子を労働者として出稼ぎに行かせました。

デフレによる原材料費の低さ、農村の貧富の差の拡大が安価な労働力を生み出し、それが国際競争力の高い商品の生産を生み出し、日本の「産業革命」に発展します。

 

不思議なことなのですが、1870年代の文明開化を「驚異の近代化」と説明しているにもかかわらず、ほんとうの近代化とでもいうべき「日本の産業革命」を第九章の「世界に打って出る日本」でほとんど触れられていないのは驚きです。

社会経済史の側面の説明がまったくないまま、戦後のGHQの民主化政策・占領政策を説明するのは、正確さも欠きますし、かなりの無理があると言わざるといえません。

 

「多くの歴史家が西南戦争の終結をもって『明治維新』の終わりと見做すのも頷ける。」(P298)

 

と説明されていますが、現在では多くの歴史家が、「明治維新の終結」ではなく「明治維新の転換点」と捉えるようになりました。

115】すべての政策が即断即決されていないし、拙速に実行されてもいない。

 

「明治五年(一八七二)以来、李氏朝鮮に何度も国交を結ぶ要求をしていた日本は、明治八年(一八七五)、朝鮮半島の江華島に軍艦「雲揚」を派遣した。しかしこの軍艦が朝鮮に砲撃される事件が起きた(江華島事件)。雲揚はただちに反撃し、朝鮮の砲台を破壊し、江華島を占拠した。」(P297)

 

国交交渉が膠着する中、停滞した協議を有利に進めるため、軍艦を朝鮮近海に派遣し、軍事的威圧を加える案が出されました。三条実美はこれに反対し、譲歩的な計画を進める寺島宗則の案を支持します。

しかし、譲歩的「外交」を進める外務省の動きに対して、海軍大臣川村純義は、「雲揚」「第二丁卯」の二隻の軍艦を秘密裏に派遣しました。

そうしてまず釜山に入港させ、あらかじめ通知した上で空砲の射撃訓練などを実施します。(艦長の井上良馨は、征韓論者でしたが、航行中、民家の火災を発見して消火活動を支援したり、賄賂を要求する朝鮮の役人に怒って不正行為を糾弾して謝罪させたりなどもしている剛胆な人物です。)

そして沿岸測量を続けながら、首都の漢城沖の月尾島に停泊、ボートを下ろして江華島にむかわせたところ、砲台から攻撃を受けました。

 

「しかしこの軍艦が朝鮮に砲撃される事件が起きた(江華島事件)。」とサラリと説明されていますが、示威行為と沿岸測量を続けてきた結果、砲撃されたのです。

井上良馨は、929日付の上申書に「本日戦争ヲ起ス所由ハ、一同承知ノ通リ」(『綴り 孟春雲揚朝鮮廻航記事』1875929日防衛省防衛研究所戦史部図書館蔵)と記しており、このことからこれらの行動が、朝鮮側からの砲撃を引き出させるための行為であり、軍もそれを承知していたことがわかります。

この経緯は以下の二つに詳しく説明されています。

『江華条約と明治政府』(京都大学文学部研究紀要)

「雲揚艦長井上良馨の明治八年九月二九日付け江華島事件報告書」(『史学雑誌』第111巻第12)

 

実際、百田氏も、すでにペリー来航の時にも、P233のコラムでこのように説明しています。

 

「ペリーが兵隊を乗せた小舟を下ろし、江戸湾(現在の東京湾)の水深を測るという行動に出た時、防備にあたっていた川越藩兵はそれを阻止しようとしたが、幕府から『軽挙妄動を慎め』を命じられた浦賀奉行によって押しとどめられた。自国領内、しかも江戸城のすぐ目の前の海を外国人が堂々と測量することを黙認した幕府の態度は腰抜けとしか言いようがない。」

 

つまり、日本はこの時のペリーと同様、沿岸の測量をし、首都の目の前の島に投錨して小舟を出しました。

違うところは、幕府は、「軽挙妄動を慎んだ」のに、朝鮮は砲撃をした、ということです。

百田氏は幕府を「腰抜け」と評されていますが、朝鮮は「腰抜け」ではなく、砲撃という過激な行動に出たわけです。もし幕府もペリーの測量に対して阻止する動きをとっていたならどうなっていたか、その結果を推測できる事件を明治政府が示してみせたともいえます。(後の展開を考えれば、幕府の外交姿勢が正しかったことを、朝鮮が証明してくれました。)

 

日本側は、ただちに江華島と永宗島砲台を攻撃、永宗島の要塞を占領します。

日本側の戦死者は1人、対して朝鮮側は戦死者35人、捕虜16人、鹵獲された砲は30を越える戦果をあげ、戦いは日本側の圧勝に終わりました。

 

「内外に様々な大きな問題を抱えながら、すべての政策と法律がまさに即断即決で出されている。たとえ拙速であっても果断に対処していく決断力と実行力は見事である。しかもすべての政治家が近代国家というものを初めて運営しているにもかかわらずだ。」(P297P298)

 

と説明されていますが、かなり誤解されているようです。ここに至る日朝交渉、江華島事件後の交渉と日朝修好条規締結の過程をあまりご存知ないようです。

まず、この一連の問題は、1871年からの粘り強い交渉が背景にありました。朝鮮側は幕末日本の長州藩のように攘夷熱にうなされていて、日本だけで無く諸外国ともトラブルを起こしていました。

日本国内も対朝鮮強硬派と穏健派に分かれ、「征韓論争」を巻き起こし、それがきっかけで「明治六年の政変」にまでいたっています。「即断即決」など、そんな稚拙な対応を明治政府はとっていません。

諸外国の意見を聞きながら、また、国内の強硬派(海軍)と穏健派(外務省)のバランスをとりながら、交渉を進めています。

 

「果断に対処していく決断力と実行力」が見事なのではなく、「近代国家というものを初めて運営している」がゆえに、慎重に事を進めて、日本に有利な条約にこぎ着けているところが見事なのです。

 

フランスにも意見を求めて、これを受けてボアソナードは、釜山・江華港の開港、朝鮮領海の自由航行権、江華島事件に対する謝罪の3つは要求すべき、と「助言」していますし、森有礼は「和約を結ぶ以上は和交を進めて貿易を広げることをすれば、それが賠償金の代わりになる」と強硬より穏健の利を説いています。

ペリーの交渉にも学ぼうとしました。

交渉の前にペリーの『日本遠征記』を熟読、交渉の姿勢などを深く研究しています。

イギリスのパークスは、日本の交渉の経緯を深く分析して注目しており、日本もそのことは熟知していて、イギリス、そしてロシアなどの介入が無いように配慮して交渉を進めています。

明治政府の外交は、「即断即決」でもなければ「拙速」でもありません。

 

「悠長に政策論議をしている時間的余裕はなかったのである。」(P298)という説明に至っては完全な思い込みで明治政府は、慎重に政策論議を進めて、「拙速」どころか「丁寧に」そして、日本に有利な日朝関係を「巧みに」築き上げるのに成功したのです。

 

114】薩摩・長州閥が「征韓論」で巻き返しを図ったのが明治六年の政変ではない。

 

「危機感を抱いた薩摩・長州閥が、「征韓論」反対で巻き返しを狙ったのが、「明治六年の政変」だった。この政変により、土佐・肥前閥は政府の中枢からほぼ一掃され、以後、明治政府は薩摩・長州閥が幅を効かすようになる。」(P295)

 

と説明されています。独特な明治六年の政変の解釈です。

 

「危機感」とはどういうことかをその前にこのように説明されています。

 

「…司法卿の江藤新平(肥前)が、陸軍大輔の山形有朋(長州)と大蔵大輔の井上馨()を汚職疑惑で辞任に追い込んだことによって、一気に表面化した。これは明らかに土佐・肥前閥が薩摩・長州閥の発言低下を狙ってのことだ。」

 

まず、ここでおっしゃられている汚職事件とは、尾去沢銅山事件と山城屋事件のことだと思いますが。

山城屋事件は、山県の関与が十分に疑われるものでしたが、実は薩摩を中心とする近衛(桐野利秋)と長州を中心とする陸軍の山県有朋の対立が背景で、江藤新平が山県を辞任に追い込んだのではなく、薩摩の桐野利秋らが追及して山県を辞任させたものです。

ほぼ薩摩兵で構成されていた近衛の都督に長州の山形有朋が就いていたことによる長州に対する薩摩の反発は強く、薩摩と長州も対立していました。

江藤新平による尾去沢事件と山城屋事件の追及に関しては、土佐閥は何の関係もありません。

百田氏のような単純な対立の説明は誤りです。

 

「この政変は、表向きは『征韓論』で対立した形だが、実態は薩摩・長州閥と土佐・肥前閥の勢力争いだった。」

 

と説明されていますが、実態は、「薩摩と長州の対立」「肥前の内部対立」「薩摩の内部対立」が複雑に絡んだものでした。

 

 「これは『岩倉遣欧使節団』(内治派)と、その外遊中の「留守政府」(征韓派)と呼ばれる者たちの対立でもあった。」(P265)

 

とも説明されていますが、これは1980年代までによく用いられたドラマや小説でよく設定されたものです。現在はこんな単純な説明はしません。

そもそも井上馨・山形有朋は「留守政府」側でしたし、「岩倉使節団」にいた山口尚芳・久米邦武は肥前閥、田中光顕・佐々木高行は土佐閥です。

(外遊中には重要な政策は実施しないと約束していたのに「地租改正」や「徴兵令」を進めた、と、木戸や大久保が責めるような場面がドラマや小説ではみられますが、それらは長州の井上・山県が進めたものでもあります。)

 

「…政府内で、西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らを中心に『征韓』を唱える声が上がった(『征韓論』)。しかし、大久保利通や木戸孝允らは、対外戦争はまずいと判断して反対する。大久保らはまず国内をしっかり治めることが最優先であると考えていた。」(P294)

 

「征韓論」をこのように説明するのは現在ではめずらしいです。

 

武力討伐を唱えたのは板垣退助です。

武力征伐に強く反対したのは西郷隆盛でした。

「明治政府が李氏朝鮮と近代的な国交を結ぼうとし」た(P294)ことに対して、李氏朝鮮はあくまでも「旧礼」つまり旧幕府時代の形式で外交を進めようとしました。

過度な大院君の排日運動に対して、日本の居留民の保護を名目に軍を派遣しようと主張した板垣退助に対して、西郷隆盛は旧礼にのっとり、旧礼の対応方式で使節として赴き問題を解決する、と主張しました。副島種臣もこれに同意しますが、使節は自分が行く、と主張しています。(ちなみに「自分が殺されたら、それを大義名分にして朝鮮を攻めろ」とは西郷隆盛は言っていません。)

 

大久保利通・木戸孝允は、西郷隆盛が使者として赴くことが戦争に発展することを危惧しました。その点、「対外戦争はまずいと判断して反対する」という説明は正しいですが、「大久保らはまず国内をしっかり治めることが最優先であると考えていた。」というのは一部誤りで、これを主張したのは木戸孝允です。

大久保は、清との懸案であった琉球帰属問題、ロシアとの樺太・千島領有問題、イギリスとの小笠原諸島領有問題の解決を優先すべきだ、と主張したのです。

ですから、この点は、木戸と大久保も考え方が違っていました。

 

「征韓論」と言われていた板垣と西郷の意見は根本的に違い、「内治派」と言われていた木戸と大久保も根本的に意見が違うんです。

 

ですから、大久保は、明治六年の政変後、「台湾出兵」をおこない、琉球の日本帰属を明確にさせようとし、後の政府が結ぶ樺太・千島交換条約を実現する準備をしました。

(ちなみに、木戸孝允が台湾出兵に反対して政府を辞めた理由もこれで説明できます。)

 

前から言うように、通史はネタフリとオチが大切。

征韓論と明治六年の政変の話を史実に基づいてちゃんと説明していれば、P296の「台湾出兵」の話も樺太・千島交換条約、そして前に水野忠徳の小笠原諸島領有の努力の話も、みんな繋がったのに、なんとももったいないところです。

 

「この政変により、土佐・肥前閥は政府の中枢からはほぼ一掃され、以後、明治政府は薩摩・長州閥が幅を利かすようになる。」(P295)

「ただ奇妙なのは、この時、追い落とされた中に、元薩摩藩の西郷隆盛がいたことだ。」()

 

土佐・肥前藩は政府の中枢からほぼ一掃され、と言われていますが、あくまでも百田氏が知っている人物がいなくなっただけだと思います。征韓論に賛成していた大隈重信も大木喬任も肥前ですが明治政府の要職についていますし、福岡孝弟、谷干城、佐々木高行は土佐ですが、やはり明治政府の中枢にありました。

「ただ奇妙なのは」と思ってしまうのは、征韓論を誤解し、明治六年の政変を単純に薩長・土肥の対立と解釈しているからです。

113】世界史を見渡せば、急激な近代化を成し遂げた国はアジアにもある。

 

「世界史を見渡しても、これほど急激に近代化を成し遂げた国はない。」(P294)

 

と説明されていますが、アジアだけに例をとっても、近代化を「成し遂げた」国はわりとあります。もちろん19世紀にしぼってもそれは言えます。

 

そもそもP291P294にかけて説明されている「驚異の近代化」は、どう読んでも1870年代の話です。1870年代は「近代化を成し遂げた」とはとてもいえない状況です。

「近代化に取り組み始めた」というべきでしょう。

「近代化」を「西洋のものまね」、というならば70年代はそう言えるかもですが、「成し遂げた」というならばやはり日清戦争と日露戦争の間くらいではないでしょうか。

もっとしぼって1868年の五か条の誓文に始まり、1889年の大日本帝国憲法の制定までを「近代化」として考えてみると…

 

まずオスマン帝国は、19世紀の前半にギュルハネ勅令を発して1876年の憲法制定まで、「タンジマート」という近代化を進めました。

その初期はまさに明治維新。

タンジマートの前にイギリスと通商条約を結び、これは、イギリスがアジア諸国とむすぶ条約の原型となります。

その後、1839年、ギュルハネ勅令によって、西洋式の政治体制をつくって省庁制を導入、軍事・政治・文化・教育の西欧化を始めました。中央集権的な官僚体制もつくられ、近代的な軍隊を整備し、1840年代初期には銀行もつくられ、近代的な教育機関としての学校も設立されました。

岩倉具視使節団にも参加していた福地源一郎と島地黙雷は、オスマン帝国がイギリスとむすんだ不平等条約改正を順調に進めていると知り、オスマン帝国に行ってそれを見習おうとし、さらにはオスマン帝国の裁判制度を取り入れようと研究しました。

タンジマートは明治維新の手本にもなっています。

 

それから、清で進められた「洋務運動」は、規模も投入された資金も、はるかに明治維新を上回るものでした。

「洋務運動」は1861年から始まります。

大量の鉄砲・軍艦の輸入から入り、電報の設備、製紙工場・製鉄所、陸海軍の学校、西洋書籍翻訳局を次々に設立しました。

61年から64年にかけてほぼ西洋式の軍需工場を完成させています。

教育・留学事業も大々的に進み、1862年には京師同文館という外国語研究機関もつくられ、軍事大学でも、66年には近代的な軍事教育を受けた卒業生を出し、準備された艦隊や軍隊の士官を供給しています。

清に対する軍事的な遅れを意識していたからこそ、1880年代の松方財政でも軍事費だけは削減できず、後の山形有朋の「利益線」論につながっていきます。

日清戦争を前に明治新政府も、洋務運動による中国の急激な近代化とその成果を十分認識していました。洋務運動は、日本の近代化を促した(焦らせた)隣国の成功例です。

 

タイの「チャクリ改革」は、明治維新とよく対比されます。

ラーマ5世は1868年、15歳で国王となりました。この点、明治天皇と同じような状況です。

また、イギリスやフランスがタイをめぐって外交上の「かけひき」を展開していたことも日本の状況と似ています。

奴隷の解放や封建的支配を受けていた下層市民・農民を解放するなど近代的な社会改革をまず始めました。人材育成のための学校の設立をはかり、エリート養成だけでなく義務教育を開始します。

王室メンバーの海外留学だけでなく、中流階級の留学も奨励し、すべての官僚が留学経験者となりました。

軍事改革も陸軍を中心に進められ、諸貴族や地方勢力とむすぼうとする英・仏を牽制する力となったことから、軍と国王の密接なつながりが生まれます(後のタイの政治に軍が国王に忠誠を誓いながらも政治に関与する由来はここにあります)

内政面でも、鉄道・道路の整備、電信・電話、郵便、そして水道を整備しました。

地方勢力の委任統治を廃止したことは版籍奉還、廃藩置県によく似ており、州を置いて、郡制・町村制をしいたのは、日本で山形有朋がドイツ仁顧問モッセの助言で地方制度を整備したことにそっくりです。

これらは明治維新とほぼ同じ20年間の成果です。

 

「近年、東南アジア諸国において、日本の明治維新が研究材料となっていることも頷ける。」(P292)

 

「研究材料になっている」「研究されている」という場合、その根拠となることは何でしょうか。政治家が研究していたり大学で研究していたり、ということでしょうか。

百田氏の根拠は不明ですが、東南アジアで、比較的親日的と言われていて、日本の文化・研究が進んでいるインドネシアを例にとってみますと…

「インドネシアにおける日本研究の現状と将来」(インドネシア大学・イ=ケット=スラジャ)の分析をみると、日本の歴史の研究はかなりさかんなことがわかります。

論文の例があげられていますが、「明治時代の自由民権運動」「明治時代の教育」「日露戦争」「聖徳太子」「キリスト教と鎖国」「明治時代の女性運動」「岩倉具視」「太平洋戦争」「1946年日本国憲法」「北方領土問題」「町人の歴史」「自衛隊」「西郷隆盛」「日清戦争」「西周」「出島」「財閥」「平安時代」「満州事変」「殖産興業」「安保条約」「明六社」「日本の台湾侵略」「総合商社の歴史」「天皇裕仁」のテーマがみられます。

 

多岐にわたってはいますが、「明治時代」が多いのは明白ですね。

 

たしかに百田氏の指摘のように「日本の明治維新が研究材料となっている」といえますが、問題は明治維新の「何を」研究しているか、です。

スラジャ氏は、この論文の中で、

 

「発展途上のインドネシアが直面する問題の背景を考察する時、1960年代後半以来の日本の経済的な成功を含めて、明治維新から第二次世界大戦終結にいたるまで、日本が民主主義を確立できなかったことは、非常に興味をそそる。」

 

と説明しています。近代化が民主主義にいたらなかった理由と問題を「明治維新」に見出そうとしているんですよ。

他国の研究の視点は、「日本はすごい」、という日本側の楽天的・自己満足的な評価とは無縁なところに向けられている、と思わなければ滑稽です。

 

岩倉具視使節団も、イギリスやアメリカを視察し、その繁栄の「陰」の部分をちゃんと学んでいます。

明治初期の、まだ見た目だけの「西洋のものまね」は、近代化を成し遂げた、とはもちろんいえません。

当然、当時の日本人からも批判されていて、民友社の徳富蘇峰は、政府の進める欧化政策を「貴族的」であると批判し、「上からの欧化」ではなく、「下からの欧化」を説きました。

また、政教社の三宅雪嶺は、国粋主義の立場から欧化政策を批判し、これは政府内でも、井上毅・谷干城などからも反発をうけています。

現実、「すごい」ところばかりにとらわれない、というのが正しい歴史の研究だと思います。