『日本国紀』読書ノート(47) | こはにわ歴史堂のブログ

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47】「応仁の乱」によって大和朝廷から脈々と続いてきた社会制度は崩れていない。

 

応仁の乱の影響として

 

「…従来の身分制度が崩れた。東西陣営とも、戦いに勝つために、家格に囚われず、勢力を持つ者たちを守護職に就けたからだ。」(P131)

 

これは具体的にどの守護大名を言うのでしょう?

越前の朝倉氏のことをおっしゃっているのでしょうか…

「家格」というのをどういうものと考えられて言われているのかはわかりませんが、朝倉氏は南北朝時代から斯波氏の有力家臣(しかも日下部氏の流れをくんでいる)でした。守護代ではない、ことは確かですが甲斐氏と並ぶ重臣です。「家格」も実力も朝倉氏は十分に備えていました。

また守護に就くのは応仁の乱がほぼ終息してから後です。「戦いに勝つために」東軍は彼を守護に任じられたのではありません。

インターネット上の説明(Wikipedia)にも同じような説明がみられますが、誤っています。

 

「また、東西両軍は味方を得るために、それまでの家格を無視した叙任をおこなった。西軍は一介の国人であった越智家栄を大和守護に任命し、東軍は西軍の有力武将だったが守護代でもなかった朝倉孝景を越前守護につけた。」

 

大和の国人越智家栄は「一介の国人」とはいえません。筒井氏と並ぶ有力な国人でした。西軍が越智氏を選択したのはおかしなことではありません。

また、大和国は興福寺が守護で、越智家栄は「守護」に任命されていないはずです。

 

そもそも「従来の身分制度が崩れた」(P131)と言うのも誤りです。

中世社会の身分制度は、「貴種」-「司・侍」-「百姓」-「下人」-「非人」といわれています。(黒田俊雄「中世の身分制と卑賤観念」『日本中世の国家と宗教』)

応仁の乱を含めて、その後もこの身分制度の枠組みは崩れてはいません。

あくまでも「司・侍」の中での争いです。(将軍家は「貴種」化していきます。)

「応仁の乱」で、守護大名が京都で争っている間に守護代や有力国人が力を伸ばし、領国支配の実権がしだいに彼らにうつっていきました。

家臣が主人を倒しているようなイメージがありますが、実際は主人にとってかわるのではなく、別の親族を立てたり、それに相当する別の守護の血縁などを擁立する場合がほとんどです。(大内氏を倒したように思われている陶晴賢も、実際は大内義長(大友氏)を立てています。)

 

「それまで有力武将はすべて源氏や平氏の流れを汲む者、つまり天皇の血統に連なる者が尊ばれたわけだが、応仁の乱以降は血統とは無縁の実力者が現れるようになった。」(P131)

 

イメージで戦国時代を説明しすぎではないでしょうか。

「すべて源氏や平氏の流れを汲む」というのはどんな根拠で説明されているのでしょうか。これはあきらかに誤りです。

関東管領の上杉氏は、鎌倉幕府の皇族将軍宗尊親王とともに京都から鎌倉に下った藤原重房を祖としています。

九州の大友氏も、藤原秀郷あるいは藤原利仁を祖としています。菊池氏も藤原氏が祖です。

藤原流の有力守護・国人はわりと多いと思います。

細川・畠山・斯波・赤松・一色・京極・赤松は源氏… むしろ平氏がいない…

めずらしいところでは、周防大内氏は、多々良氏、つまり百済聖明王を祖としている守護大名もいます。

 

「戦国時代を象徴する『下剋上』の思想もこの時代に生まれた。」(P131)

 

これも誤りです。後醍醐天皇の「建武の新政」を風刺していた『二条河原の落書』の中にすでに出てきています。

 

「下克上スル成出者」

 

『二条河原の落書』の話を「建武の新政」のときに出しておけば、このときの説明のネタフリになっていたのです。

「下剋上」は時代の節目、とくに体制に変化があったり混乱したりしたときにはよくみられた現象です。院政期の近臣の台頭、平氏政権、悪党の出現、南北朝の争乱などなど…

 

「大和朝廷から脈々と続いていた伝統的な社会制度や通念は、応仁の乱によって一気に崩壊し、新しい概念が生まれた。」(P131)

 

応仁の乱が変えたのは、有力守護が在京して幕府の政治に参加するというそれまでの室町幕府の体制です。大和朝廷から脈々と続いてきた体制ではありません。もちろん新嘗祭や大嘗会などの宮廷行事は江戸時代まで中断されることになりましたが…