『日本国紀』読書ノート(45) | こはにわ歴史堂のブログ

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45】「室町の文化」から「北山文化」も「庶民の文化」も抜けている。

 

「室町文化の特色としてまず挙げられるのは、前述の『わび・さび』である。」(P126)

 

「細かいことが気になるぼくの悪いくせ」なのですが…

「わび」「さび」という言葉が、美意識を示す言葉として確立されたのは「江戸時代」です。

教科書では、「侘び茶」という言葉が村田珠光の「茶の湯」の説明で出てきますが、実はこれも「江戸時代」に珠光の「茶の湯」をそう説明したものです。千利休も「わび」「さび」という言葉を文献に残していません。

教科書も室町時代の文化を「わび・さび」で説明することを極力避けるようになりました。1960年代の教科書との大きな違いです。

(一部、東山文化を伝統的な「幽玄」と「侘」が基調にある、と説明している教科書もありますが、当時の人々は、この時代の美意識を江戸時代の「わび・さび」のようには理解していません。)

百田氏が説明されている「わび」「さび」の説明はあくまでも江戸時代に確立された美意識の説明です。

 

さて、「まず挙げられるのは…」と説明されると、ついつい「次に挙げられるのは…」と話が続くと思ってしまいました。

「室町時代を象徴する文化」が「わび・さび」(しかも江戸時代以降の美意識)だけで説明されているのは問題です。

 

「室町の文化」は2種3段階で説明します。

3段階とは「南北朝時代の文化」「北山文化」「東山文化」です。

2種とは「武家・公家文化」と「庶民の文化」です。

 

授業では、生徒たちに、

 

「文化は3つの余裕が無いと生まれないよ。一つはカネの余裕、一つは時間の余裕、もう一つは心の余裕。」

「笑いと同じで、緊張からの緩和で生まれるよ。」

(後者は枝雀師匠のパクリですが…)

 

室町時代は、産業がいっそう発達しました。文化の発達はこれと不可分ではありえません。

幕府が京都に置かれたこと、東アジアとの交流が活発になったこと、武家文化と公家文化の融合、大陸文化と伝統文化の融合…

これらが「室町の文化」の特徴です。

 

どうも百田氏は、日本の文化が大陸からの影響を受ける、ということを過小にとらえられているようで、意図的か無意識か、いずれの文化の説明でも欠落してしまっている場合が多いようです。

 

「南北朝の文化」は時代の転換点に高まった緊張から歴史書や軍記物が生まれました。

2種のうちの「公家・武家の文化」として、貴族の側からの『増鏡』、『神皇正統記』。武家の側からの『梅松論』などが歴史書として著されました。

緊張の後の緩和として、軍記物の『太平記』が広く読まれ、庶民にも受け入れられていきました。

連歌は武家・公家の中から流行し、後に庶民に広がります。茶の異同を飲み分けて競う「闘茶」も流行しました。

これらは新興武士「悪党」が流行に導いたのですが、新奇を好むバサラの気質と深く関わりがあります。

 

「北山文化」は禅の文化でした。

臨済宗は、夢窓疎石が足利尊氏の帰依を受けて以降、幕府の保護で広く深く浸透しました。義満は、南宋の官寺の制度を取り入れ、五山・十刹の制を完成させます。

禅僧が中国から学び、持ち帰った文物は、禅の精神を反映したもので、中国の水墨画や建築・庭園様式を伝えました。

五山の僧、如拙・明兆・周文によって日本の水墨画の基礎が確立します。

宋学の研究、漢詩文の創作も深まり、義堂周信・絶海中津らが五山文学を大成しました。

「北山文化」=義満の時代、と、とらえがちですが、この禅文化は4代義持の時代に隆盛を迎えます。

戦乱が無くなり(精神的余裕)、経済的に豊かな有閑階層(武家・公家)が、文化の担い手となっていく…

 

「北山文化」の説明を「室町の文化」の話から欠落させることは、「能・狂言」の話が欠落することです。

観阿弥も世阿弥も説明せず、よって『風姿花伝』も紹介されなければ、後の東山文化に通じる「幽玄」の説明も出てこないことになってしまいます。

 

「わずかな動きで世界を表現する能や狂言が発達したのもこの頃である。」(P128)

 

これでは、「能」を東山文化の頃のものと誤解されてしまいます。

4代義持が「田楽」を好んだために「能」はやや下火になり、世阿弥は6代義教によって追放されているのですから、やはり義満の時代の「北山文化」の説明の中で「能」を説明しなくてはならなかったと思います。

 

さて、「東山文化」ですが…

「義政の文化面での功績は大きい」(P126)と説明し、「彼が収集した絵画・茶器・花器・文具などは後に『東山御物』と呼ばれ、現在その多くが国宝になっている。」と説明されています。

実は、このことは、義政の「文化面の業績」かどうかはちょっと言えない側面があるんです。

 

義政は、政治を捨てて、ほんとに「趣味の世界」に生きていたのか…

 

「日明貿易」が関係しています。

日本の輸出品なのですが、銅・硫黄などの鉱産資源の他に、刀剣などの武器、扇・屏風など工芸品があるのですが…

足利義政は、寺院や公家の屋敷に「御成」といってよく訪問しています。この訪問の「御礼」として、扇・屏風・絵画・美術工芸品が義政に献上されていました。これが「東山御物」で、これを義政は日明貿易の輸出品として利益をあげていたのです。

東山殿も京都の商人たちからの税、民衆の夫役によって建設しています。

これは足利義満が朝廷から奪った幕府の徴税権が応仁の乱後も健在なことを示すよい例です。

義政が「政治を疎むようになった」「政治を任せて」「趣味の世界に生きていた」(P126)というのが誤った「足利義政」像であることがわかります。

 

そして何より重要なのは「庶民文化」なのですが…

この話はまた後ほど…