『日本国紀』読書ノート(38) | こはにわ歴史堂のブログ

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38】倒幕運動の説明が『太平記』のフィクションにたよりすぎている。

 

「…何という無様な体たらくか。わずか五十年前、蒙古軍に挑んだ鎌倉武士団と同じ武士とはとても思えないほどの有様である。」(P111)

「日本が危機にさらされた時は命懸けで戦う一方、内乱から鎌倉幕府を守るための戦いでは、まったく士気が上がらなかったのだ。」(同上)

 

まず、「体たらく」ぶりを「遊女を呼び寄せて遊びにふけり」「賽の目のことで喧嘩になり」、と説明されていますが…

 

誤った情報や史料に基づいて論を立てても、その論には意味がありません。

「悪党、楠木正成の挙兵」というこの項では、『太平記』に基づく記述、というか、大正時代くらいに使用されていた教科書や副読本並みのかなり古い「楠木正成」像に基づいた説明となっています。

実は、私自身も、楠木正成は改めて再評価してもよいと考えているのですが、「再評価」と「復古」は別です。

ここでの説明は、「楠木正成」の活躍に偏りすぎです。

しかも未検証のフィクションを含むものが多い説明のような気がします。

 

前にも申しましたように、単に振り子の揺り戻しでは、誤謬の繰り返し、再生産になってしまいます。

「わずか五十年前」と記されていますが、これは、この時代の五十年を過小評価しすぎです。

得宗専制の中、北条氏の家臣(御内人)と幕府の御家人の対立、また御家人内でも格差があらわれてきました。

荘園・公領での地頭・非御家人・荘園領主の利害関係・対立も表面化していました。

(そもそも蒙古と戦ったのは九州の御家人ですし、同じ武士ではないのは当たり前。)

反幕府、といってもそれぞれの勢力の背景はさまざまで、それを後醍醐天皇という存在によって統合され、倒幕への流れをつくりました。

新田義貞・足利尊氏・楠木正成・貴族…

それぞれの立場、思惑はまったく別で、これが後の「建武の新政」での対立とその分解につながります。

ですから、「建武の新政」に向かう内乱を、楠木正成を大きく取り上げて説明してしまうと、後の新政の失敗の原因がぼやけてしまいます。

 

また、楠木正成が、「釘付け」にされ、「鎌倉の防備が手薄になっていた」という説明もネット上の解説などではよくみかけますが、兵力差の粗密・逆転は、そもそもが「寝返り」によるものです。

関東にはそれ相当の兵力がいたのですが、それが反北条に回ったのです。新田・足利の挙兵までは「手薄」ではありませんでした。

 

新田義貞に「高額の戦費を要求したが、義貞がこれに応じなかったため、幕府は義貞追討令を出した。怒った義貞は逆に鎌倉に攻め込んだ。」(P112)

 

この説明はあまりに単純です。新田義貞による鎌倉攻めは新田義貞の個人的な反感で実現したわけではありません。

足利尊氏の子、千寿丸(後の義詮)の挙兵と関東地方の御家人の離反の説明も必要です。「源氏の流れをくむ新田・足利」がそろってはじめて大軍の形成が可能になったといえます。

そもそも『太平記』に即して説明するならば、護良親王が登場しないのも不思議です。

元弘の変で後醍醐天皇が失敗した後、近畿の「悪党」は、今度は護良親王を中心に活動を展開しました。

 

実際、元弘の変に後醍醐天皇が失敗した後、「護良親王や楠木正成らは、悪党などの反幕勢力を結集して蜂起し、幕府軍と粘り強く戦った」(詳説日本史B・山川出版)と説明するのが一般的です。

後醍醐天皇が隠岐から脱出すると、今度は鎌倉方の正規兵、御家人たちが討幕に呼応しました。足利高氏(のち尊氏)が六波羅探題を攻め、関東でも新田義貞が挙兵します。

後醍醐天皇の倒幕運動は、段階によって変化し、いくつもの川が合流して進んでいったのです。

 

さて、鎌倉の幕府軍の士気はかなり高かったようです。

鎌倉攻防戦は2週間にわたりました。

義貞は、3ヵ所から鎌倉侵入を試みますが、ことごとく撃破されています。

極楽坂・巨副呂坂・化粧坂の「切り通し」での鎌倉方の防衛は堅固でした。そして海岸沿いから鎌倉に侵入します。

『太平記』を読まれて、それにもとづいて話をされているはずなのに、いろいろちぐはぐで不思議な感じのする章です。

「楠木正成の活躍」のおもしろい話は史実としてでは無く、「コラム」で紹介されればよかったのではないでしょうか。