『日本国紀』読書ノート(37) | こはにわ歴史堂のブログ

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37】北条高塒は最後の執権ではない。

 

「北条氏の最後の執権だった高塒…」(P113)

 

と説明されていますが、これは「北条氏の最後の得宗だった高塒」というべきでした。

北条高塒は最後の執権ではありません。

 

高塒は24歳で出家して1326年、執権職を北条貞顕にゆずっています。

貞顕が最後の執権かと思うと、そうではなく、貞顕はわずか一カ月ほどで北条守時に譲っています。

幕府の有力者であった安達氏と長崎氏の対立が背景にあったといわれています。

戦後の歴史教育の中で、ついつい「最後の執権北条高塒」と言ってしまっていた先生もおられたので、このように考えている50歳以上の方はたくさんおられると思います。

 

「得宗」というのは、北条氏一族の長(惣領)です。

執権は北条家が独占していたので、北条氏の一族の長がその地位につきましたが、一族の長が時期執権を選び、幕府の政治にも大きな発言権を持つようになります。

創業家経営の企業に似ていて、創業家の長が、社長を任命したり、役員を指名したりしているような感じです。

いわば幕府の要職が北条氏に私物化されていたとも言え、よって北条家の家来の御内人が台頭し、昔ながらの御家人たちの不満が高まる背景ともなりました。

 

「『太平記』では、時の執権北条高塒は田楽や闘犬に夢中で政治を顧みなかった暗愚な暴君として描かれている。」(P110)

 

とされています。

実はこれも誤りです。

後醍醐天皇の倒幕運動が展開されるときは高塒は執権の座を退いて出家しています。

1524年の正中の変の時は執権でしたが、前述したように1526年には出家して北条貞顕に譲り、さらには北条守時に執権職は移っています。

また、「田楽や闘犬に夢中」となったのは、執権を退いて出家してからのことです。

執権在職中のことではありません。

 

『太平記』の記述や、NHKの大河ドラマ『太平記』での高塒役の片岡鶴太郎さんの「怪演」のせいもあって暗愚なイメージですが(明治時代は歌舞伎の演目での敵役のせいで同じようなイメージを持たれました)、実像はかなりの相違があったようです。

もともと病弱で政務をとれないことから執権を退いて出家しました。田楽や闘犬も楽しんだようですが、病弱で「亡気」な日常の中で「田楽や闘犬くらいしか楽しみがなかった」というのが、歪められて伝わったようです。

幕府滅亡の時も、鎌倉から離れることなく、一族の長としての名誉の死を選んでいるようですし、なにより人望が無い「うつけ者」であれば、多くの家臣が死をともにしないと思います。