葛原親王には二人の息子がいました。
一人が高棟王。
学校教育では、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した、なんて説明してしまうもんだから、12世紀で平氏が断絶してしまったかのような印象を与えてしまいますが、平氏は滅んではいません。
高棟王の子孫は、堂上家といって、昇殿がゆるされる高位の貴族の家柄となります。
いわゆる貴族としての平氏の家柄です。
平清盛の妻の時子や、後白河法皇の寵愛を受けた滋子は、この高棟王の子孫です。
「平氏にあらずんば人にあらず」(この一門にあらざれば人非人なるべし)という有名な言葉を残した平時忠は、時子の同母弟で、滋子の異母兄、ということになります。
この有名な言葉は、平清盛が述べた言葉ではありませんし、平清盛の横暴さを示す言葉てもありません。(清盛は、謙虚で思慮深く、家来を大切にする人物でした。)
そして、もう一人が高見王。
この人こそ、坂東平氏の源流、高望王の父です。
が、しかし…
まったくの“謎”の人物なんです。
『尊卑文脈』という書があります。貴族などの系統を示す系図ですが、男系のみの表記で、妻や娘などの女性はすべて「女」としか表記されていません。
あらわされたのが南北朝時代から室町時代にかけてで、源平藤橘のうち、藤原氏と源氏の記述は詳細ですが、平氏の記述にはややあいまいな部分が多いというものです。
これによると、高見王は、なんと無位無官。
葛原親王の子の代から平姓を名乗ることになっていたはずなのですが、高見王は平姓を名乗っている気配がない…
いくらなんでも、葛原親王の子が無位無官なんてありえない。
おまけに平姓でもない。
子とされている「高望王」の“高望”の読み方は「たかもち」以外にも「たかみ」とも読める。
よって、実は「高見王」なる人物はおらず、葛原親王の孫ではなく子が「高望王」なのではないか?
と、考える研究者も多いんですよ。
でもね…
高見王は若くして死んでしまった(この時代、16才くらいですでに子を為している、という場合もけっこうある)ので、無位無官であり、よって平姓も名乗っていなかった、と考えてみるのはどうでしょう?
残されたのは幼い高望王。
父の後ろ盾をうしなっている貴族の子弟は、都での出世はなかなかのぞめない…
よって高望王は、関東にくだっていったのだ、と、すると、一応のツジツマは合います。
はるか後年、平重盛の死後、維盛、資盛などの小松家が中央での力を失ってしまった、というところによく似た事情があったのでは、と、私は考えています。
いや、もっと想像をたくましくして…
「なんらかの理由で」高見王が“罪”を得てしまい無位無官の身となってしまった。
しかし、なんといっても葛原親王の子…
不祥事は記録から消される…
なんといっても皇室の血をひく“貴種”であるので、高見王の子、高望王は、関東へ下向して都へは帰らず、そこで、関東の治安維持に活躍する…
そう考えてみてもおもしろいかもしれません。
高見王という“謎”の空白に、平氏が関東に進出していった理由が隠されている、のかもしれません。
さて、関東に向かった高望王なのですが…
(次回に続く)