人というものは将棋の駒と同じである。
駒ではなく、使う人間に問題があるのだ。
とは、細川忠興の言葉です。忠興はさらに続けます。
人は、一つの役目で不調法であっても、他のことでも役立つことがある。
何もかも一人でできる者はおらぬ。
忠興は息子の忠利に2000通以上の手紙を送っており、その中で、さまざまな“訓示”をしています。
将棋の駒にはそれぞれの働きがある。
桂馬は、頭に歩一枚置かれると、それをとることはできない。
しかし、一枚隔てて筋違いの飛び方ができ、角でも飛車でもできぬことができる。
忠興は、息子に、常に家臣のことをよく見よ、一つのことができぬからといって無能よばわりしてはならぬ。上に立つべきものは、家臣の能力が発揮できる場をみつけて、そこで使わなくてはならないのだ。
家臣を責める前に、まず自分を責め、用い方が間違えていなかったか、常に考えなくてはならない、ということを説いていました。
忠興は、息子の忠利とは将棋もよく指していたようです。俗説ですが、
「歩の無い将棋は負け将棋」
という言葉のもとになったのは、忠興と忠利が将棋をしていたときの話に由来しているといわれています。
「家臣たちにしっかりと役割分担をし、それぞれの能力に合ったことをさせるのだ。」
「はい。わかりました。」
「そしてとくに大切なのは…」
と、盤面に一枚の駒をびしっと打ちました。
「これだ。」
「…歩、ですか…」
「歩がなくなればそこから家は滅びる。歩をうまく使えぬ、歩を大切にせぬ王将は窮地に追いこまれよう。歩の無い将棋は勝つことはできぬのだ。」
金や銀にとりまかれ、最前線の歩の働きが見えぬ王将は、目の前に危機が迫るまで何も気が付かない愚に陥ることでしょう。
そういえば、細川忠興が若き将であったころ、このような言葉を残しています。
わたしは、家来の背中を見ながら戦ったことはないぞっ
常に最前線に出て、兵とともに戦おうとしていた武将でした。
トップこそ、最前線に出よ。
とは、現在でも通用することでしょう。