みなさんにはこういう経験はありませんか?
コミックを読んで知っている登場人物が、アニメ化や映画化されてしゃべると、
え~ ちがうっ そんな声じゃないっ
頭の中にイメージされた人物像、というのが人には必ずあります。
歴史上の人物も、その人にどういうイメージを先に持っているのか、ということで、後々に得る色々な史実も、取捨選択してしまい、自分にとって一番良い情報をどんどん加味してしまう、ということがよくあります。
源義経・森蘭丸・沖田総司…
こういう人たちは、とくに“イメージ”先行型の理解をされてしまう人々です。
歴史上に出てくる人物が、イケメンなのかブサメンなのか…
歴史そのものの本質から少々ズレている議論かもしれないのですが、でも、歴史はヒトの歴史です。
その人物が、どういう容姿で、どういう立場で、どういうことを為したか、というのは、何というか一体化していることだと思うのですよね…
歴史にはいろいろなバイアスがかかりますが、とくに容姿はそう…
小説などの場合は、読者が頭の中でイメージすればよいわけですから、どんな人物像をつくりあげたって、それこそ自由…
その“自由”に対して、学者や歴史マニアは、時々挑戦してくるわけですから、ムカつく人もたくさん出てくると思うのです。
源義経もイメージが再構築されたり、崩されたり、と、評価がコロコロと変わる人物です。
義経イケメン説には、どういう背景があるのか、と申しますと…
まず第一は、お母さんの常盤御前が絶世の美女であった、ということ。
都じゅうの美人を集めた中から選ばれた人でしたから(いわばミス京都代表)、その子も見目麗しいに違いない、いや、そうだ、ということです。
『平家物語』の中にも色白である、というような記述もみられます。
第二は後世、いろいろな歌舞伎、芝居、小説、ドラマで“悲劇の主人公”として描き続けられてきた、ということがあります。いわゆるイメージの再創造、ですよね。
主人公は当然、むかしはイイモンでしたから、ワルモンは醜く、イイモンは美しい、という配役がなされて当然です。
義経ブサイク説には、どういう背景があるのか、と申しますと…
歴史家や歴史マニアの、ややイジワルな根性のせい、というのがないとはいえない。
「おまえら義経、男前やと思っているやろ~ ほんとはちゃうねんぞっ」と言えば衝撃的でおもしろい。
実際の「肖像画」は、とくに美男に描かれているものもない…
そして彼らがよく持ち出すのが「文献的記録」である『平家物語』。
「九郎は色白う、小さきが、向歯のことにさし出でて知るかんなるぞ」
という部分。
「義経は色白で、チビで、出っ歯で、誰だかみたらすぐわかるっ」
まぁ、こう言われれば果たしてイケメンだったのか? と、なるのも仕方がない…
でも、これは平氏の兵たちが、敵の(源氏の)大将を罵倒しているセリフなので、実際ブサイクかどうかはわからない…
人の身体的特徴を誇張するのが悪口、というもの。
また逆に、容姿がよい、と言われている人物こそ、「そんなにたいしたとないやんっ」と否定的に説明されますからね。
ジャニーズの男前たちに対してさえも「え~ あの子言うほどカッコよくないやん」とか言っちゃう人いますから。
結論から言ってしまうと、「義経」のことはよくわからんっ というのが歴史学的回答なんです。
そもそも義経の前半生の記録は皆無なのです。
『義経記』があるじゃん、という人がいますが、あれは室町時代に書かれた歴史小説です。
鞍馬で修行していたり、なぞの修験道の人物に兵法を学んだりなんぞはしておりません。
登場したときから「物語的」な人物ですから、イケメンなのかブサメンなのか、まったく不明なのが実際です。
ただ、イケメンなのかブサメンなのか、調べてやるっ と、いろいろな文献、記録が探されてきたことによって、他の人物よりも、歴史的な背景がよくわかってきた、というのも確かなんですよね。
歴史を発掘する原動力は“興味”です。
イケメンなのかブサメンなのか…
この議論は永久に繰り返されるでしょうが、そうしてより詳細にその人のことがわかっていく、ということも確かなのです。
ヒトは見た目で判断してはいけません。
という言葉があるのは、ヒトは見た目で判断している、ということの証拠でもあります。
ただ、歴史上の人物はこの逆で、
ヒトは「行い」で「見た目」を判断している。
ということになりそうです。
歴史上の人物は、「業績」で「容姿」を判断してはいけません。
と、申しておきましょうか…