北条政子… コヤブ歴史堂では、第23回に取り上げた人物です。
歴史学的には、つまり史料として、北条政子の記録、というのは実は少ないのです。
そもそも、彼女の名前すら、1218年以前のものは不明なのです。
え? 政子は、政子では? と、思われるかもしれません。
「政子」という名前は父の北条時政から一字もらったものなのですが、それは、朝廷から従三位をもらったときのことなのです。
「○子」というように「子」がつくのは貴族の子女のみ。
高位になったからつけた名…
小説やドラマなどでは、頼朝が政子に
「政子… 愛しているよ」
な~んて、名前を呼ぶ場面があったりするのですが、これはありえません。頼朝が死んでおよそ20年後に「政子」という名前になったのですから…
頼朝と出会ったころの名前など、まったく不明なのです。
「物語」や「説話」に出てくる政子と頼朝には、いろいろなエピソードが残っています。
『曽我物語』『承久記』
は、史料というより、物語としての要素が強いもの。
幕府の正史で、コヤブ歴史堂ではおなじみの
『吾妻鏡』
にも、政子と頼朝、二人の出会いの記録は出てこないのです。
番組で「夢買い」の逸話を取り上げましたが、これは『曽我物語』に出てくる話。
そして「出会い」と言えば『曽我物語』。
政子の父、北条時政が、平氏の代官、山木兼隆と政子を結婚させようとしたが、頼朝と政子が「駆け落ちした」という話が出てきます。
これが1177年のことなのですが、近年の研究で、山木兼隆が伊豆に来たのは1179年であることがわかりました。
つまり、有名な「駆け落ち」の話は、どうやら後世の作り話のようなのです。
ただ、『吾妻鏡』では、政子が頼朝に「闇夜をさまよい、雨露をしのいであなたのところにやってまいりました」と話しているので、親の反対をおしきって頼朝と結婚した、という、「何らかの話」はあったと考えられます。
もともと、頼朝は源氏の後継ぎとはいえ、伊豆に流罪にされてやってきた人物です。
貴人とはいえ、伊豆の豪族が、自分の娘を結婚させる相手、としてはちょっと選びにくいところだったでしょう。
親の反対を押し切っての結婚であった、というのは間違いはないと思います。
一途な政子の頼朝への愛とは裏腹に、頼朝は「別の女」との関係を続けていきます。
ただ、この点、当時の“慣習”から頼朝を責めるのはちょっとかわいそうな気がします。武家は後継ぎをたくさん確保しておく必要があります。一夫多妻は常態でした。
彼の祖父、源為朝なんて子どもが20人いましたから…
政子との交際を始める前にも、何人かの女性と交渉を持っており、生まれた子が男子のときは、殺されていたようです。
政子との交際後では、政子の妊娠中に「亀の前」という女性のもとに通うようになります。
激怒した政子が兵を派遣して、「亀の前」の家を破却せしめた、という逸話も有名です。
でも、これをもって政子を“悪女”だとか怖い女だ、と評するのはどうでしょうか…
「駆け落ち」同様で結ばれた二人… 政子の愛が深いことの裏返し、と考えてもよいような気がします。
1177年頃に、政子と頼朝の間に一人の女の子が生まれています。大姫、と、呼ばれていました。
この子が6歳のときに、木曽義仲の11歳の息子、義高と「結婚」することになります。
これは、政略結婚で、まぁ、かんたんに言うと平氏打倒の共闘を組んでいる頼朝と義仲の同盟の証として、頼朝が義仲から人質をとった、というようなものでした。
もとろん、この結婚は「悲劇」をもたらします。
義仲と頼朝が対立することになり、義仲が敗北、義高は殺害されることになりました。
政子は頼朝に助命嘆願したようですが、武家のしきたり… 義高は殺されてしまいます。
ショックを受けた大姫は、心の病に陥り、回復することはなかったといいます。
後鳥羽天皇と大姫の結婚、ということも一時は計画されたのですが、大姫は20歳の若さで死んでしまいました。滝に身を投げての自殺、という話もあります…
『承久記』によると、政子は自分も死のうとしますが、頼朝にとめられた、と記されています。
そして、その二年後… 夫の頼朝も死去してしまいました。
やはり『承久記』では、自殺を図ろうとした話がみられます。二人の男の子と、もう一人の女の子の三人の子を残して死ぬわけにはいかぬ、と、思い止まっています。
かっと感情が高ぶり、そして衝動的に行動しようとするも、思いとどまる…
愛情深い、心の振幅の大きい女性だったことがよくわかります。
政子は出家して尼となりましたが、なんとその2ヶ月後、次女が14歳で死んでしまいました…
そしてこの年、政子にとって、子を失った悲しみにくれている場合ではない“事件”が起こってしまいました。それは…
(次回に続く)