続・【首都大学東京】
④弥生時代後期の日本の様子を記載している中国の歴史書には、日本の分立していた小国のなかには、➄当時の中国から印綬を賜った王や、生口を献じた王がいたことが記載されている。
問3 下線部④の歴史書名を答えなさい。
問4 小国の王が下線部➄のようなことをしたのは、どのような意図だったと考えられているか。
60字以内で答えなさい。
唐突ですが、歴史学と考古学の違いがわかるでしょうか。
よく子どもたちに半分、冗談として次のような話をします。
なんか穴を掘ったら茶碗が出てきた。よくみると、米つぶみたいなものがついていて、お茶の葉っぱらしきものがついている。しかも、鮭の身がちょっと残っていた…
ははぁ~ん、こいつ鮭茶漬け食いやがったな~ と、考えれば「考古学」。
さらに、掘っていたら、日記みたいなものが出てきて、そこに「今日は鮭茶漬けを食べました。」と書いてあって、ああ、こいつ鮭茶漬け食ってたんかぁ~ と、考えれば「歴史学」。
モノを手掛かりに考えるか、記録を手掛かりに考えるか、ちょ~雑な考古学と歴史学の違いの説明です。
さて、その意味においては、弥生時代は、「考古学」の世界になります。
なぜなら、日本にはまだ文字がなく、当時の記録が無いからです。
ところが! お隣の中国では、周辺国・地域の記録を残してくれていました。つまりそれを手がかりとすると「歴史学」が可能なのです。
三つの史料が、前1世紀、1・2世紀、3世紀の日本の様子がわかります。
前1世紀は、『漢書』地理志。
1・2世紀は、『後漢書』東夷伝。
3世紀は、『魏志』倭人伝。
『漢書』地理志に出てくる記述は「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余告国となす。」というものが有名です。当時、日本人は「倭人」と呼ばれ、小国に分立していた…
「楽浪海中」、とは、漢が朝鮮を支配するために設置した四郡の一つ、楽浪郡のこと。「楽浪郡の海のむこうに倭人が住んでいました。」ということになります。
『後漢書』東夷伝に関しては2つの部分が重要です。
1つは、「建武中元2年」の記述。西暦57年に該当します。
建武中元二年、倭の奴国の王が、貢物を奉じて朝賀した。使者は自ら大夫と名乗った。
光武帝は印綬をたまわった。
この「印綬」は、金印と組みひものことで、金印は後に福岡県志賀島で発見されています。
「漢委奴国王」と刻まれていました。「倭」は印鑑に刻まれているものなので、イ(にんべん)は無く、「委」と刻まれていました。
もう1つは、「永初元年」の記述。西暦107年に該当します。
安帝の永初元年、倭国の王、帥升(すいしょう)が生口百六十人を献上し、朝見を願い出た。
「生口」とは奴隷のことです。
さて、問3は、「後漢書」というのが答えとなります。歴史書としての名称は「後漢書」。でも、東夷伝という言葉をつけて×にできるかというとちょっと難しいところです。「歴史書は何か」という問いに対しては『後漢書』と解答するほうがよいとは思います。
さて、倭の小国は、なぜ、中国に使いを送ったのてか?
「何か」よいことがあったからです。
よいこととは何でしょう。
文化は、水と同じで、必ず、高いところから低いところへ流れていきます。
当時の中国のすぐれた文化を取り入れることができる、ということがあったと思います。
それからもう1つは「ジャイアンとスネ夫」の理論です。
自らの支配権を正当化し(中国が王の称号などを与えることによって)、他国よりも優位に立とうとした、ということです。
スネ夫をおそれるにあらず、背後のジャイアンをこそおそれる、ということです。
問4の解答は、「中国のすぐれた文化を取り入れ、王の称号などを得ることによって他国より優位に立とうとする意図があった。」(50字)ということでどうでしょうか。