以下、『続日本紀』の記述をもとに説明していきます。
724年2月のことでした。
元正天皇より位を譲られた聖武天皇は、まず、自分の母の扱いを明確にしようとしました。
文武天皇の“夫人”であったわけですから、母の尊称として“大夫人”と呼ぶように命令(勅)を出します。
ところが、3月になってから、長屋王が“みょうな”申し入れをしてきました。
「聖武天皇さま。実は、お母さまのご尊称のことなのでございますが…」
「どうした?」
「実は、天皇のお母さまのご尊称は、令の定めでは皇太夫人と呼ぶ、と、決められております。」
「ほう。で?」
「令に従って、皇太夫人とお呼びしますと、前の勅に反すること(違勅)になりますし、前に出された天皇の命令(勅)に従いますと、お母さまは“皇”の一字を失って、令に反すること(違法)になります。どうしたらよいでしょうか?」
ようするに、皇太夫人と呼ぶと違勅となり、大夫人と呼ぶと違法となる。どうすべきか?
という問いかけです。
聖武天皇は、勅を撤回し、書類上は「皇太夫人」とし、お名前をお呼びするときは大御祖(オホミオヤ)としなさい、という命令を出しました。
は?? つまり… どゆこと?? と、なりそうな話です。
歴史学では、いろいろ論争されるところですが、二つの説が考えられています。
まず第一ですが。
長屋王は、行政担当官です。701年に定められた律令を運用する立場にあります。
天皇の命令と律令の規定が異なる場合はいったいどうするべきなのか?
実際、聖武天皇は「勅」を撤回して「令」に従っています。
このことから、天皇の権限は、あくまでも律令制度の枠内にとどめられており、「律令政治」が動き始めていたことがわかる、という説です。
第二は。
このできごとは、聖武天皇が、自分の母を“夫人”であったことから、なんとか「皇后」であったということに格上げしたいために、長屋王らの行政官に、わざと奏上させて(一芝居打たせて)、「皇太夫人」と呼べるようにした、という説です。これも十分に考えられることです。
わざと「大夫人」と言う。家臣たちが、いや、「皇太夫人」ということにいたしましょう。じゃ、そうしよう…
貴族の社会では「あるある話」です。
ただ… わたしは第三の可能性もある、と、思っているんですよね。
なんだか長屋王。ちょっとイヤミじゃないですか?
聖武天皇は、きっと謙遜なさって(あるいはコンプレックスから)自分の母親が臣下の娘であったことから、「大夫人」という称号にしよう、と、提案なさったんだと思うんですよ。
ちょっと一言いうたろか、という長屋王の、“いじわる”がなかったとはいえません。
「おやおや、えらい謙遜なさっておられますなぁ ええじゃないですか、皇太夫人で。律令じゃそうなってますやん。」
というような“感じ”が『続日本紀』に書かれたやりとりから見えるような気がしてなりません。だって、「“皇”の一字を失って…」というくだり、必要ですか? なんでわざわざこんな一言入れるんです?
「あなた、何も言わなければ、臣下の娘だったにもかかわらず、お母さんは“皇”の一字をもらえるじゃないですか。せっかくなのになんでわざわざ大夫人って呼ぶんです?」
これ、言われたら腹立ちますよね。
祖父は天皇、父も皇族、おまけに母も皇族で妻も皇族、という長屋王が言うんですから。
「じゃ、書類上、皇太夫人と呼んでおけ! おれはお母さまっ て呼ぶからなっ」
という聖武天皇のお怒りが聞こえてきそうなのですが…
考えすぎでしょうか…
この事件が、長屋王の変の伏線になっているような気がします。
(次回に続く)