天武天皇、文武天皇、聖武天皇、桓武天皇という四人の日本の“武帝”の間には、女性の天皇がおられます。
天武-持統-文武-元明-元正-聖武-孝謙-淳仁-称徳-光仁-桓武
このうち、実は持統・元明・元正・孝謙・称徳の5代の天皇が女性なんです。
古代最大の内乱、壬申の乱に勝利して天皇となった天武天皇は、大きな力をもって政治を進めたといわれています。
そして有能な子どもたちにも恵まれました。
草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子・舎人皇子…
天武天皇は、死の床にあって、妻と草壁皇子に政治をまかせる、ということを宣言します。
そうしてお亡くなりになりました。
その翌月、大津皇子は、謀反の罪で退けられます。
そうして草壁皇子が次期天皇となるのか、と、思いきや、草壁皇子も病死してしまいました。
天武天皇の妻は、草壁皇子の子、軽皇子を天皇に推そうとしましたが、まだ幼い(7歳)…
「それでは、この子が大きくなるまで、私が天皇になります。」と宣言します。
これが持統天皇です。
よく、持統天皇は、中継ぎの天皇である、と、言われますが、わたしはそうは思いません。
持統天皇は、そもそも天智天皇の娘。この方が天皇になる、と、宣言すれば、ちょっと他の皇子や貴族は口出しできません。
実際、飛鳥浄御原令を施行したり、実際に班田収授を実施したときに使用した庚寅年籍を作成したり、唐の都を模して、本格的な都、藤原京を造営したり、と、女帝として大きな力をふるっていたと思います。
そうして軽皇子に位をゆずります。この軽皇子が次の文武天皇です。
文武に位をゆずった後も、持統上皇として文武を補佐していますから、なかなか強烈なおばあちゃんだったような気がします。
会社を夫とともに経営してきた妻がいる。
息子が時期社長となるはずだったのに、夫が死んだばかりか、息子も死んでしまった。
息子の忘れ形見であるかわいい孫がいるがまだ幼い…
「この子が大きくなるまでがんばるわっ」と、妻は社長となり会社をきりもりする。
で、孫が大きくなったので社長にし、自らは会長となって孫の若社長を後援する…
こんな感じだったのかもしれません。
さて、次の文武天皇には、有能な部下がいました。中臣鎌足の息子、藤原不比等です。
701年には大宝律令を刑部親王(忍壁皇子)とともに完成させ、律令体制の基礎を築きました。
文武天皇の妻は、藤原不比等の娘の宮子さん。二人の間には、首皇子が生まれます。
ところが、文武天皇は突然、病に倒れました。
死の床にあって、母と妹を枕元に呼びました。
「お母さん、もうわたしはだめです。どうか息子のことをよろしくお願いします。お姉さん、首皇子をかわいがってくださいね。」
「何を言うのっ しっかりなさいっ」
「お母さん、詔をします。次期天皇、それはお母さんです。」
「ええ?? あなた何言ってるの!」
なんと文武天皇は次期天皇に母を指名してこの世を去りました。
母は天智天皇の娘。皇位継承権は立派にあります。こうして文武天皇の母が天皇となりました。
これが
元明天皇
です。
(次回に続く)