武と武の間に女あり(1) | こはにわ歴史堂のブログ

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

天武天皇、文武天皇、聖武天皇、桓武天皇という四人の日本の“武帝”の間には、女性の天皇がおられます。


天武-持統-文武-元明-元正-聖武-孝謙-淳仁-称徳-光仁-桓武


このうち、実は持統・元明・元正・孝謙・称徳の5代の天皇が女性なんです。


古代最大の内乱、壬申の乱に勝利して天皇となった天武天皇は、大きな力をもって政治を進めたといわれています。

そして有能な子どもたちにも恵まれました。

草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子・舎人皇子…


天武天皇は、死の床にあって、妻と草壁皇子に政治をまかせる、ということを宣言します。

そうしてお亡くなりになりました。

その翌月、大津皇子は、謀反の罪で退けられます。

そうして草壁皇子が次期天皇となるのか、と、思いきや、草壁皇子も病死してしまいました。

天武天皇の妻は、草壁皇子の子、軽皇子を天皇に推そうとしましたが、まだ幼い(7歳)…

「それでは、この子が大きくなるまで、私が天皇になります。」と宣言します。


これが持統天皇です。


よく、持統天皇は、中継ぎの天皇である、と、言われますが、わたしはそうは思いません。

持統天皇は、そもそも天智天皇の娘。この方が天皇になる、と、宣言すれば、ちょっと他の皇子や貴族は口出しできません。

実際、飛鳥浄御原令を施行したり、実際に班田収授を実施したときに使用した庚寅年籍を作成したり、唐の都を模して、本格的な都、藤原京を造営したり、と、女帝として大きな力をふるっていたと思います。

そうして軽皇子に位をゆずります。この軽皇子が次の文武天皇です。

文武に位をゆずった後も、持統上皇として文武を補佐していますから、なかなか強烈なおばあちゃんだったような気がします。


会社を夫とともに経営してきた妻がいる。

息子が時期社長となるはずだったのに、夫が死んだばかりか、息子も死んでしまった。

息子の忘れ形見であるかわいい孫がいるがまだ幼い…

「この子が大きくなるまでがんばるわっ」と、妻は社長となり会社をきりもりする。

で、孫が大きくなったので社長にし、自らは会長となって孫の若社長を後援する…


こんな感じだったのかもしれません。


さて、次の文武天皇には、有能な部下がいました。中臣鎌足の息子、藤原不比等です。

701年には大宝律令を刑部親王(忍壁皇子)とともに完成させ、律令体制の基礎を築きました。

文武天皇の妻は、藤原不比等の娘の宮子さん。二人の間には、首皇子が生まれます。


ところが、文武天皇は突然、病に倒れました。

死の床にあって、母と妹を枕元に呼びました。


「お母さん、もうわたしはだめです。どうか息子のことをよろしくお願いします。お姉さん、首皇子をかわいがってくださいね。」

「何を言うのっ しっかりなさいっ」

「お母さん、詔をします。次期天皇、それはお母さんです。」

「ええ?? あなた何言ってるの!」


なんと文武天皇は次期天皇に母を指名してこの世を去りました。

母は天智天皇の娘。皇位継承権は立派にあります。こうして文武天皇の母が天皇となりました。

これが


元明天皇


です。

(次回に続く)