第5回目は、徳川吉宗です。
この回は、コヤブさんのトークが全開の楽しい回となりました。ビデオに録画している方は、もう一度、よくごらんくださいね。
吉宗は、紀州徳川家の第二代、光貞の四男として生まれました。
四男ですから、本来、紀州徳川家を継ぐことはまずありません。他家に養子に出されるのをただ待つ、ということになっていたかもしれません。
江戸にいたとき、ふとしたことから、5代将軍徳川綱吉の目にとまり、えらく気に入られました。綱吉は、なんと、この14歳の少年を、越前国(福井県)で3万石を与え、大名にしたのです。
こういうこともあってか、吉宗は、綱吉のことをずっと尊敬することになりました。後に将軍になったとき、綱吉の政治を否定した「正徳の治」の中心人物、新井白石たちをまっさに退けて改革を開始したのも、そういうところに理由があったともいえそうです。
さてさて、吉宗の“幸運”は続きます。
第3代紀州藩主で、兄の綱教が死んでしまい、さらにもう一人の兄、頼職が第4代藩主になって半年も経たずして死去してしまったのです。
そうして吉宗が、紀州藩の藩主になってしまいました。
そしてさらに“幸運”が舞い込みました。第7代将軍、徳川家継がわずか七歳で死去してしまい、徳川本家、徳川秀忠の男系が途絶えたのです。
吉宗は、続柄としては徳川家康のひ孫にあたります。そうして、次期、将軍候補に急遽、浮上することになりました。
しかし吉宗の“幸運”はまだ続きます。
もう一人の候補、尾張徳川家の徳川吉通が死去、そしてその子も病死してしまったのです。あまりのタイミングのよさに、紀州家が二人を毒殺したのでは? という「疑惑」も生まれたほどです。
こうして徳川吉宗が、第8代将軍となり、「享保の改革」と呼ばれる政治を断行することになります。
同時に、尾張家との「確執」も生まれました。吉宗と、後の尾張藩主、徳川宗春との争いは、この将軍の地位をめぐる紀州-尾張のケンカが背景にあったんですよね。
「本来、そうなるはずではなかったのに、そうなっちゃった」という人物… 5回までで、徳川光圀・徳川綱吉・武田信玄・徳川吉宗、と、五人も存在していることになりました。
さて、吉宗の「にゃんたのマル秘ファイル」として
「大奥の美女50人をまとめてリストラした」
というのを紹介しました。
吉宗は、質素倹約を進め、幕府の行政改革を進めていきましたが、大奥では、女中たちの「ぜいたく」が続いていました。
そこで、大奥の経費を大幅に削減するために、このようなことをした、というわけです。
ところが、ちょっぴり裏もありまして…
大奥の中でも、実は、次期将軍を紀州から出すか、尾張から出すか、紀州派と尾張派に分かれていたのです。で、けっきょく天英院(6代将軍家宣の妻)の強い推薦で、吉宗が将軍に選ばれました。
将軍になった後、吉宗は、大奥の経費削減をうたいながら、天英院に、なんと1万2000石(大名格)の報酬を与えています。
ひょっとしたら、この「美女50人のリストラ」は、大奥内の「尾張派」の女たちを一掃した事件だったのかもしれません。