湖畔人です。

新しいブログサイト、"湖畔人の現時点での結論"の新記事をアップしたのでシェアさせていただきます。
宜しくお願い致します。

https://ameblo.jp/kohanbito-2016a/entry-12967925718.html
第3話. "第2話の神と人間の関係性(1)"の考えに至るプロセス①(改1)
2026-05-31 23:54:53
テーマ:神と人間の関係性

湖畔人です。


以前、ここのブログの第2話で"神と人間の関係性(1)(改3)"について書きましたが、
そこでは、『人類一人一人が神の分光された光であり、神の子であり、神の部分ともいえる存在だが、一旦その事実を忘れたこの世界において、神の一部としての自覚を取り戻し、その自覚を得たなら、神の一部としてふさわしい生き方を各自が自分らしく生きる事で成すべきで、その過程で神の代わりに、神の偉大さを実感するような経験をし、結果、我々を通して神ご自身も、自らの偉大さを実感したいと願われている、そうした事を輪廻の過程の中何度もチャレンジしているのが我々』、と言うような世界観を示しました。
まぁただ、その世界観は、前提として、神がいて、我々が霊的存在であって、また我々は輪廻している存在である、と言う考え方がベースにあって、でも、何故そう自分が思ったか、については特に言及がしていませんでしたが、今回、そうした考えに至った思考プロセスについても参考までにシェアさせていただいた方が良いかなと思い、今回その思考過程をシェアさせていただきます。
こうした考えが妥当と考えるに至った要因は、
まず、①つ目は、直観的にそれが正しいと思えたから、と言うのが率直な理由です。
次に、②つ目は、神と霊的世界の実在の可能性の有無は、あるかないかの50%であり、ない場合は死んだ後、どうせ無になり何も認識されないのだから、そのケースはあまり気にしなくてよいが、仮にあるとなると、その場合は、天国とか地獄とか、神が設定した死後の世界に待ち受ける世界観がどんなものが予め知っておいた方が良い、と考えるようになり、
③つ目は、とは言え、様々な説があり、霊感のない自分には、その真偽をジャッジはできる立場にはないが、根源的な神は何人にも公正公平な存在なはずで、誰にでも公平に適用される公平なルールを設定されているはずだ、と言う考えを持つに至り、
④つ目は、公平の観点からは、どこかの民族のみが救われるとかいうような思想はあくまでローカルな神で普遍性、根源性が感じられず、何人に対しても公平で公正であることを求めるならば、
➄人類が全員神の子、神の一部と言う考え方は、とても公正で公平に見えるし、
⑥仏教にあるような因果応報、カルマの思想も、人に成したことは全て自分に返って来る、というような思想は万人に対し公平に思えるし、
⑦は、各自の生まれ育つ家庭環境の差があまりにも大きい中、仮に一度きりの人生となると、その前提の差の大きさから、一度きりの人生ではあまりに不公平過ぎるので、何度も生まれ変わるという輪廻の思想の方が公平に思えるし、
と言う事で、
➄⑥⑦辺りの考え、人類が神の子、神の一部で、因果応報の法則下で、輪廻転生をして様々な条件を経験して、その中で各自神に近づく過程にある、と言うような思想が、誰にでも公平で公正で、それなら信じられるな、と思うに至った次第です。
この三つを外すとかなり不公平になるので、この三つは外せないだろ?神は訳が分かる思考回路の方のはず、きっとリーズナブルな考え方をされるご存在なはず、だとすれば、多分、この三つは必須だろ、と思うに至った訳です。
で、多分、直観的には合っていると思います。
但し、地獄行か天国行かなどは分かりようがないので、兎に角、自分も神の子、神の一部、他人も神の子、神の一部、だとして、今の考え、過去の考えや態度はその視点から見て妥当だったのかどうか?それを考え、その視点で振り返って、それで仮に問題があったなら、直接か、または心の中で、その相手に対し詫びるようにする事、そして、今後の事に関しては、基本、自分も他人も神の一部だとして、その接し方や見方は妥当なのか?と問いながら生きて行くのが妥当だろう、と思うようにしています。
で、仮に、②の所で、神も霊もあるという前提に対し、いや、それ自体が疑問だ、神も霊もないのでは?と言う見方もあるかと思いますが、これは、ダーウィニズム的唯物論的進化論、そうした唯物論を前提にした共産主義等はこれに該当するでしょうが、でも、私などから見ると、ダーウィニズム自体、根拠の薄い信仰の類にしか見えないのです。
そう思う理由は、
・そもそも新しい種の誕生を目撃した人など一人もいないし、
・彼らは突然変異をその進化論の論拠にしているけど、仮に奇形な存在が突然変異で生まれたとして、
そうした突然変異した存在は数が少ない為、新しい種を生み出すにはそもそも絶対数が足らな過ぎるし、
・そもそも単純な無機物から有機物を生み出すという超初歩の進化過程ですら、ラボでの再現は出来ないし、
・なので、当然、単純な有機物から動き回るより複雑な有機物への進化も、ラボでは再現出来ません。
対象に電圧を与えようが、大きく磁場を変えようが、大きく熱を加えようが、ラボでそうした進化の再現は出来ないのです。
でも科学的真理は、本来ラボで繰り返し再現できるものを科学的真理と呼ぶべきで、それが出来ないのであれば、ダーウィンの進化論は、単なる妄想、狂った信仰の一種としか見えないのです。
それよりは、まだ人の手による人為的な人工の遺伝子操作によって様々な種が生まれた、と言う説の方がよっぽど信じられるのです。なので、アヌンナキによる人類創造の伝説がありますが、そっちの方がよっぽどリアルに感じられます。
それに、唯物論の共産主義国では、人を単なる機械、『物』、と見るので、人命を余りに軽んじ過ぎて、余りにも簡単に人を殺し過ぎるきらいがあり、余り住みたい環境ではないのです。
中国では文化大革命で6千から8千万人、自国民を粛清しているようだし、旧ソ連でも約2千万人が粛清され、ポル・ポト政権時のカンボジアでも約200万人、かつてのベトナムでも約100万人、北朝鮮でも約200万人、旧東欧諸国で約100万人の粛清と、余りにも多くの人命が、各国の共産党政権の都合によっていとも簡単に殺されており、ホント生き地獄ともいえる状況が共産主義の世界では展開されていたのです。そして今では、人民の一挙手一投足をCCDカメラとデジタルでもって監視、管理し、政府に逆らうと隔離するというデジタル管理社会になっているのが現代の共産主義国、中国の姿です。息が詰まるし、生きた心地がしませんね。よって、無神論、唯物論が支配的な社会の住環境は、人の住む環境としても『最悪』とも言え、引っ越したいか?と言われると拒絶感しかないのです。
と言う事で、科学的にも唯物論(=無神論)的進化論は論拠が乏しく、また生活環境と言う観点で見ても、唯物論(=無神論)をベースにした共産主義国での生活環境は、常に監視される生きた心地がしない牢獄のような社会であり、唯物論、無神論の世界は最悪な世界と言うように見えます。
やはり、人間神の子の思想を持った人が多く住む世界の方が、断然いいと思えるのですが、如何でしょうか?
また思いついたら追記します。
では。
湖畔人
(2026年6月2日改訂)