第 8 章 若離(3)
美容師の先生からの洗脳が成功する前に逃げ出して、黙笙はかなり意識して動くことを選び、道々我慢できずに帰り道にある商店のショーウィンドーの中を何度も見る。
ショーウィンドーの中の人もめちゃくちゃな髪の毛で浮かぬ顔をして頭を押し付ける彼女をじっと見つめている。
ガラスを睨み付けて思い出せば思い出すほど可笑しくて、黙笙は我慢できずに声を出して笑いだしてしまう。
通りすがりの人は全く訳も分からず彼女を見て、こんな髪の毛をして頭を押し付け更にはそんなに楽しい人が居るなんて想像するのが難しい。
「お嬢さん、店の中に入って見ませんか?」
店員の女性は声を響かせて暖かい声をかけてくる。ショーウィンドーの中のマネキンを長いこと見ていた自分を、既に人様がじっと見つめているのをやっと黙笙は気が付いた。
彼女がぽかんとした時、一つの好みの物をじっと見つめて眼球は動かなくなる。
昔、以琛は他でもなく彼女に見つめられて酷く恐れを感じていた。
「素敵ね」
黙笙は少しきまり悪く、そして礼儀正しい笑みを浮かべて店の中に入って行く。
店の名ではよく知られたメンズブランドが売られ、黙笙は元々ただいろいろと見るだけのつもりだったのに、一着のダスターコートの前で足が止まってしまう。
とてもシンプルなデザインで、以琛の好みの色・・・手はひとりでに襟に触れもし以琛が身に着けたら、と想像をしてみる。
絶対に見栄えがいいー
「お嬢さんは彼氏の服を買いに来たんですか?これは今年の最新ファッションで、今なら20%offすると3,200ですね」
黙笙はそれを聞いてぎょっとする。
高すぎる!
ほぼ彼女の一か月の給料で、彼女の手元の何処にそんな大金があるっていうの。
申し訳なく思って店員の女性に向かって頭を横に振ると、女性は穏やかに笑った。
入り口まで行ってもやはり惜しい気にがする。
このコートは本当に彼に似合っている・・・
黙笙は前に以琛に渡されたカードを思い出して急ぎ足で戻って行くと
「ここでカードは使えますか?」と聞く。
サラサラ・・・
と、いう音が止まり「お嬢さん、ここにサインをお願いします」
ペンを持ち上げてほとんど習慣的に自分の名前を書く直前、幸運にもこれが以琛のカードで”何以琛”とサインすべきだと思いだす。
ー何以琛ー
これまでに何度も書いた事がある名前。
毎度、彼女は以琛の後ろにくっついて何に腹を立てていた?
それほど覚えてはいないけどただ、一人で自習していた時のことは覚えている。
高等数学をもって問題を解き、確かに下書きを始めていたけども我に返ると紙の上はすでに”何以琛”と、いっぱいに書いてあった。
突然、背後から
「黙笙、書き間違いをしている」と、以琛の声がした。
彼の彼女を見る目は笑っている。
「そんなわけないでしょ?」
恥ずかしいとこを見つかりすぐに覆い隠すとペンを持ち上げて”何以琛”と、書いてもらう。
どこが間違っているの?
「書き順が違っている。”何”の右側の”可”は先に口を書いてから最後に縦棒を書く・・・さあ、もう一度書いて」
彼女は彼の大真面目なとこに馬鹿正直に騙され、本当にペンを持って真に受けてもう一度書くつもりでいた。
一個の”何”を書き終えてから反応する
「何以琛、なんであなたの名前を書かなきゃいけないの!」
どうにかサインをして美しいレシートを店員に手渡し、店員は微笑んで
「次回のご来訪を歓迎いたします」
と、言って彼女に袋を渡す。
過ぎ去った昔の思い出は良い気分にさせた途端に一旦上がってから再び下がり始める。
店を出て立つと我を忘れてぼんやりする。
昔のとろける様な甘さはすでに遥か遠くて手が届かないのに、現実の悲哀は何時も一緒に居て離れてはくれない・・・
何時になったら私たちは在りし日の幸せを再び見つけることができるの?
また、このように繰り返す心持を何時になったら止めることが出来るの?
以琛がこんなに早く帰るはずがないことを心に留めて、街で夕食を済ませて八時過ぎにやっと家に到着した。