戦争遺跡満載の海軍宮崎航空隊赤江飛行場跡にようやく辿りつきました。
赤江飛行場の戦争遺跡群は北から順に大きく分けると一ツ葉有料道路の北入口付近、そして滑走路北部と南西側の合計三カ所に分けられ、遺跡の種類は場所ごとに弾薬庫・掩体壕に分れます。
今回はまず北から順にご紹介致します。
場所は中西町地区の住宅街~田んぼに掛けての一角で、当時、弾薬庫として使われたコンクリー製構築物が1基ありました・・・。
な、なんと、僕が訪れる前に撤去されていたとの事・・・(涙)。
しょうがないので、宮崎市教育委員会編纂の宮崎市の文化遺産リストから、在りし日の弾薬庫をご紹介いたします。
ちなみに、地元郷土史『檍郷土史』によると、昭和19年(1944)の秋頃、赤江飛行場を守るため、中西町に海軍高射砲隊北村部隊が陣地を構築したとあり、その時に作られたものと考えられます。
ん~、残念・・・。
落胆した僕は次に、滑走路北部の田吉地区にある弾薬庫跡に移動しました。
ここは横に走っている一ツ葉有料道路を挟んで南北に2基づつ存在しておりまして、県(市)から頂いた資料を見ると、把握しているのは北の2期のみで南の2基は把握されていないようです。
とは言え、明らかに目視で発見できる大きさなのに・・・この不自然な未確認さに、ここでもまた政治的な匂いを感じてしまいますね。
まず北の2基から。
見ての通り畑の中である為、近くで作業されている方がその土地の方かと思い、撮影の許可等も兼ねてご挨拶がてら、お声を掛けさせて頂くと別の畑のお方でした・・・。
しょうがなく、畑を踏み荒らして迷惑にならないように、歩く所を注意しながら見学致しました。
これらは通称「八号」及び「九号」弾薬庫と呼ばれておりまして、飛行場防衛用の対空機銃陣地が付近に設置されていた為、それ用として使われていたと思われます。
今は物置きとして使われている弾薬庫、多少表面は70年以上経過のコンクリーの劣化を感じさせますが、普通のコンクリート建造物より丈夫に作られていて、まだまだ長持ちしそうです。
さすが弾薬庫として作られただけはあります。
戦後は逆にその頑丈さがネックになって、解体・除去にかなりの手間と費用が掛かる厄介物に転じて今に至っているんでしょうね~。
お次は有料道路を挟んで南側の2基の弾薬後を見に行きました。
これは頂いた資料に載っておらず、当然、名称もありません。
外観は八号・九号より一回り小さめで、窓もありません。
そしてもう一か所、弾薬庫が存在しておりまして、滑走路北東の海岸沿いの松林内にも1基あります。
下記にご紹介する津屋原沼と滑走路の間の防風林の松原の中に存在します。
こちらも名無しの2基と同形状の物ですね。
途中、お昼は近くの回転すし屋に行きました。一皿90円で、モノもそれなりでした。
最後にご紹介するのは、飛行場用土砂採掘跡、正式名称「津屋原沼」です。
地元民の方々は「赤江タンポリ」か「タンポリ」と呼んで親しんでいるようですね。
上の地図にも記載してますが、一見ただの沼、あるいは宮崎マリーナがあるからボート遊びするリゾートっぽい沼なのかと、うっかり思ってしまいますよね。
実は、かつては津屋原集落という水田地帯でありまして、前回ご紹介したように、戦時中に強制的に土地を取り上げられ、赤江飛行場建設のために、この付近の土砂を採取した跡に水が入りこんでため池となったものなのです。
水深は浅く、潮位が上がった時でないと舟は出入りできないそうです。
ちなみに終戦後に津屋原沼は大量の不要兵器が投棄されていたようなので、もし水深を深くしようと「浚渫(しゅんせつ)」すれば色んな物が出てきそうで危ないですね・・・。
武器マニアにはお宝かも知れませんが・・・。
次回は掩体壕群についてご紹介致します。
訪問時期
2015年11月