吉野駅から下市口駅間を歩く 2024年10月31日(木)
ここ数日、雨が降る日が多いのですが、今日は一日中、雨は降らないということです。そこで、前回、五条駅~下市口駅へ歩いた続きの、下市口駅~吉野駅間を歩こうと思います。吉野は遠く、かなり電車に乗っている時間が長くなるので、朝早く家をスタートして、午後は早く帰ってくるようにしようと思いました。7時20分に家を出発して、大阪阿部野橋駅8時10分発の特急で、吉野駅まで行きました。下市口駅から歩くより、吉野駅から歩く方が下り坂を歩くことになると思うので、吉野駅まで電車で行ってから、下市口駅へ戻るコースを選びました。また、吉野川の北側の道は、車が多く通るので、吉野川の南側の道を歩いて、最後、吉野川を北へと橋を渡り下市口駅へと到着しました。この吉野川南側の道は、殆ど車が通らない道だったので、歩くには最適でした。下市口駅からは、12時48分発の特急(観光特急:青の交響曲(シンフォニー))に、待ち時間10分で乗ることができ、家には2時30分に帰り着くことができました。観光特急青のシンフォニーの列車は、走っているのを何度か見たことがあるのですが、乗るのは初めてでした。内装も素敵で、外国の高級列車に乗った気分になりました。
探路262 吉野駅~下市口駅(10.6㎞) 久しぶりに吉野駅まで行きました。大阪阿部野橋駅8時10分発の特急に乗ったので、9時30分から歩き始めることができました。駅前はとても綺麗に整備されています。近鉄吉野駅から直ぐ近くにロープウェイがあるのですが、それには乗らないで、歩いて七曲がりの道を登りました。ロープウェイの高低差は103mなので、その高低差を登ったことになります。尾根道に出てから今日は金峯山寺の方へは行かずに、吉野川へと下る道を歩きました。広い駐車場を過ぎた所に吉野神宮がありました。初めてお参りする神社でした。神社を過ぎると車道から分かれて細い道へと入りました。全く車には出会わない、歩きやすい道でした。その後、吉野川沿いに下って、吉野川の南側の、街道と思われる道を西へと歩き、下市口駅近くで橋を北へと渡り駅に着きました。神社で参拝をしたり、虫や花の写真を撮ったりしながら歩いて、10㎞、3時間のフィールドワークをしました。下市口駅からの帰りは、観光特急「青のシンフォニー」に乗ることができました。
◆植物は、オオムラサキシキブ、アキチョウジ、ナギナタコウジュ、ハキダメギク、ベニバナボロギク、ヨシノアザミ、ミゾソバ、チャノキ、カラスウリ、オーデコロンミント、ナンテン、サルオガセ、などの写真を撮りました。
◆虫は、キタテハ、キチョウ、ウラギンシジミ、ツマグロヒョウモン、ヒメアカタテハ、モンシロチョウ、アキアカネ、などの写真を撮りました。
◆動物は、モグラの写真を撮りました。シカ、イタチの姿を見たのですが、写真は撮ることが出来ませんでした。
仮想研727 芭蕉と『笈の小文』 吉野から下市口駅へと10㎞ほどを歩きました。芭蕉が吉野のサクラを見に来ていることが、案内板に書かれていました。そして、その芭蕉が吉野のサクラを見に来た紀行文が『笈の小文』です。今日歩いた吉野川沿いは、かつて芭蕉が歩いていた道なのでしょう。ネットで情報を調べてみました。
「『笈の小文』は、貞享4年(1687)10月から翌年にかけての上方旅行記である。芭蕉がこの旅で志したのは、吉野の春に花を探り、更に進んで和歌浦、須磨、明石に名所旧蹟を訪ねることであった。また亡父の三十三回忌が近くあり、その法要に列席するために帰郷したいという思いもあったようだ。一方で芭蕉の文名が広く高まる中で、各地の俳人衆からの度重なる招きにこたえるという目的も少なからぬ比重を占めていた。」(愛知県総合教育センター)
「松尾芭蕉の俳諧紀行である。『笈の小文』の歩いた経路は、次のとおりです。1687年(貞享4年)10月、江戸を出発、鳴海(名古屋市緑区)に滞在、保美(愛知県田原市)を訪れる、郷里の伊賀上野(三重県伊賀市)で越年、2月に伊勢参宮、3月に坪井杜国との2人旅で吉野の花見、その後、高野山、和歌浦を経て4月8日奈良に到着、その後、大坂から須磨、明石まで漂泊」(グーグルAi)
最近歩こうと目標にしている、伊勢神宮、伊賀、吉野、高野山、和歌浦、大阪、須磨、明石は、芭蕉がかつて歩いていた所だったので、うれしくなります。『笈の小文』を読んでみようと思います。
また、芭蕉はさらに少し前にも、吉野に来ていて、その文章が『野ざらし紀行』です。ルートを調べてみました。
「松尾芭蕉の「野ざらし紀行」のルートは、次のとおりです。貞享元年(1684年)8月、江戸深川を出発し、東海道を上り、伊勢、伊賀、大和、吉野を経て、山城、近江に出る。美濃大垣に木因を訪問する。奈良、京都、大津、名古屋を訪ねる。翌年4月、中山道・甲州街道経由で江戸に戻る。」(グーグルAi)