松屋町筋を北へと歩く 2024年8月20日(火)
今日も朝から、孫の「チョウの研究」の校正をしました。
歩きに出かけるのが、午後からになってしまいました。昨日は、31度だったので歩きやすかったのですが、今日はまた33度まで最高気温が上がるようです。
探路203 松屋町筋を北へ歩く 酷暑の頃はできるだけ午前中に、大阪市内の大きなビルの影の中を、北へと歩くようにしています。御堂筋、谷町筋、堺筋、と歩いているので、今日は、松屋町筋を南から北へと歩くことにしました。
大阪市内を南北に通る「主な筋」を調べてみました。「①新なにわ筋、②あみだ池筋、③なにわ筋、④四つ橋筋、⑤御堂筋、⑥堺筋、⑦松屋町筋、⑧谷町筋、⑨上町筋」の9筋があるようです。また、東西は「通り」と呼ばれていて、主なものは、「①扇町通、②曾根崎通、③土佐堀通、④中央大通、⑤長堀通、⑥千日前通、⑦国道26号、⑧国道43号」の8通(とおり)があります。京都では、南北の道も東西の道も「通(とおり)」と呼ぶようです。神戸と大阪は、筋、通と、呼び分けているということです。また、難波周辺には、「心斎橋筋、戎橋筋、丼池筋、三休橋筋、中橋筋、藤中橋筋」などの名称のついた少し道幅の狭い筋もあります。
今日は、まず天王寺駅から北へしばらく谷町筋を北上し、口縄坂を下って松屋町筋に入りました。松屋町筋は、前回歩いた堺筋よりも静かで歩きやすい道でした。長堀通と交差する周辺は松屋町の中心地で、人形、花火を売るお店が並んでいて、アーケードもついています。中央大通と交差してからの、北側の松屋町筋は初めて歩く道でした。大阪商工会議所や、マイドームおおさかなどの建物があり、もう少し北へと歩くと、京阪電車の北浜駅と淀屋橋駅の丁度中間点に出ました。さらに真っ直ぐ天神橋を渡り北へと続きますが、今日は、西へ淀屋橋駅まであるいて、地下鉄御堂筋線で家に戻りました。
◆植物は、ヤノネボンテンカ、ナツメ、の写真を撮りました。
◆通過地点は、天王寺駅、口縄坂、松屋町筋、大阪商工会議所(五代・土居・稲畑の像)、マイドームおおさか、北浜駅、淀屋橋駅、です。
仮想研655 五代・土居・稲畑の像について 大阪商工会議所の前に像が並んでいました。大阪の産業・経済の発展に力を尽くした人のようです。ネットで情報を調べてみました。
五代友厚「父は鹿児島藩士。安政4(1857)年長崎に留学、海軍伝習所に学ぶ。慶応元(1865)年鹿児島藩留学生を率いて欧州諸国を巡歴。維新後の新政府下では、参与・外国事務局判事、外国官権判事、大阪府県判事を歴任する。明治2(1869)年官を辞し大阪において実業に従事。鉱山経営、藍の製造販売などを行う。藩閥政府とつながりが深く、政商とも呼ばれた。大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所(大阪商科大学の前身)などを設立し、大阪の経済発展に貢献した。」
土居通夫「天保(てんぽう)8年4月21日生まれ。伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩士の子。維新後,司法官をへて明治17年鴻池(こうのいけ)家の顧問となり財界にはいる。以後大阪電灯,長崎電灯,京阪電鉄などの社長を歴任した。27年衆議院議員。28年大阪商業会議所会頭。大正6年9月9日死去。81歳。本姓は大塚。通称は保太郎,彦六。俳号は無腸(むちょう)。」
稲畑勝太郎「大正・昭和前期の経営者。大正7(1918)年から昭和12(1937)年まで染料(薬品)商社,稲畑商店(1890年創業の稲畑染料店が源流。1918年株式会社化)の社長。昭和1年から12年まで,日本染料製造株式会社の社長を兼ね,染料・染色業界の中心人物として活躍した。また,大正11年より昭和9年まで,大阪商業会議所(昭和3年より商工会議所)会頭。明治10年から18年まで京都府よりフランスに派遣されて以来の親仏家で,昭和1年,日仏文化協会の設立,その後の活動に尽力した。」と、いうことです。