今日から自由人生活になる 2024年4月10日(水)

 

 今日も、朝からブログアップをして、昨日の悠遊探路を仕上げてから、お出掛けをします。編集部の人達がお別れ会をしてくれるということでした。取り敢えず会議を開いて、その後、一緒に昼食を食べました。これまで多くの教科書を書いてきて、現在の編集部の人達より長い経歴があります。これまで関わった教科書を全て並べてくれました。長く書かせてもらえて、ありがたかったなと感じました。1時間ほど、思い出を話して、その後、昼食を一緒に食べました。今後は、校正などで関わって欲しいということでした。小学校の現場を離れて随分経ちます。今年から使い始める教科書の編集にも、よく使っていただけたなと、ありがたく思いました。

 

 探路089 天王寺~長居駅 編集部での昼食の後、寺田町から、阪和線沿いに美章園駅を通り、桃ヶ池公園、長居公園へとフィールドワークをしました。いつもは、南から北へと歩く道を、本当に久しぶりに、北から南へと歩きました。今日は、ソメイヨシノが咲いてからの初めての青空でした。青空を背景にしたサクラの写真を撮ることができました。

 環状線の寺田町駅近くの大道南公園から、近鉄河堀口(こぼれぐち)駅の前を通り、美章園商店街へと繋がる細くうねる道は、大阪市内なのに、古い風情を残しています。おそらくかつての難波大道と関係し、その後も、四天王寺から南へと至る主要な道であった名残を残しているのだと思います。

 大道とは、「難波大道は、大阪府大阪市の難波宮から堺市にかけて存在した古代の官道です。『日本書紀』の推古天皇21年(613年)11月条に「難波より京に至る大道を置く」と記されており、難波と飛鳥を結ぶ主要官道であったと考えられています。難波大道は、難波宮から摂津と河内国の境を直線的に南下し、長尾街道・竹内街道のいずれかの東西道に接続するものと考えられています。都が京都の平安京に移って以来、大道はすたれ、10世紀の平安時代には廃絶したようです。」ということです。

 また、河堀口(こぼれぐち)とは、「河堀口という地名は、和気清麻呂が788年(延暦7年)に上町台地開削工事を行い、掘りかけた堀川に由来しています。堀川は河堀(こぼり)と呼ばれ、なまって「こぼれ」となり、その掘り始めた場所であることから河堀口(こぼれぐち)となったと言われています。この工事は未完のまま長く中断されていましたが、徳川時代に大和川への転さく工事となって実を結びました。工事のためこのあたり一帯は湿潤地帯となりましたが、ホタルの名所となり、シーズンには出店が並んで賑わいました。」と、いうことです。

植物は、ソメイヨシノ、ハナミズキ、ライラック、モッコウバラ、ヤエヤマブキ、シロバナタンポポ、ニセカラクサケマン(紫)、コスモス、ハボタン花、の写真を撮りました。

 

 仮想研523 いろいろしごとが終わっていく 8年前、こぎつね附属小学校の副校長を終えました。その後、大学4校での講義と幼稚園の子ども達の自然観察担当を、4年間しました。コロナ感染拡大が始まる春に、大学の講義も幼稚園での指導を、すべて終えました。その後の4年間(コロナ感染拡大時期)は、幼稚園の評議委員、自治会役員をしました。それらも、今年の春で終えることができました。

 また、教科書の執筆は、40年近く続けてきたのですが、今期の教科書の執筆で、終えることになりました。これで、ほぼ全てのおしごとを、終えることができました。無事に、卒業した気持ちです。

 いろいろな職場で多くのことを学ぶことができたので、これからは、その経験を生かして、日々のフィールドワークを通して、自然の生き物の写真をブログアップし続けようと思っています。期限、期日、拘束される時間、などから解放されて、全ての時間を、ほぼ自分が考えて行動できるようになりました。いい感じです。

 悠遊探路の生活が始まります。