阿倍野七坂を見て歩く  2024年2月23日(金)

 

 今日は金曜日。図書館へ行き、その後歩きに出かける日です。しかし、朝から雨が降っていて、一日中降ったりやんだりの一日のようです。午後には、雨が上がるのでしょうか。

 朝からブログアップと、昨日の悠遊探路を書いてから、昨日、母宅の花壇に花を植えたので、根付いているか確認に行きました。雨が降っているので、いい感じに花壇に馴染んでいました。その後、図書館で借りている金剛山、紀泉高原の地図(山と高原地図)をコピーするためにライフに行きました。カラーコピーを5枚しました。前にコピーした地図があるのですが、今回の地図は2021年版です。地図は、新しい物に更新していく事が大切です。二上山~葛城山~金剛山~岩湧山~和泉葛城山、など周辺の登山道が分かります。

 

 探路049 阿倍野七坂を見て歩く 午後2時ごろ雨が上がったので、歩きに出ることにしました。『ぶらり大阪「高低差」地形さんぽ』(新之介)で読んだ阿倍野七坂を見にに行くことにしました。堺北図書館に行ってから、天王寺駅まで地下鉄に乗りました。天王寺(あべのハルカス)から熊野街道沿いに南へと歩き、安倍清明神社、阿倍王子神社の前を通り、清明丘公園を過ぎた所で熊野街道から離れて西へと曲がりました。

 阪堺電車を渡って緩やかな下りの坂道をしばらく歩きました。この坂道は、おそらく昔の川沿いの道で、上町台地から流れ下っている川?地下水?が流れていた谷地形の中を歩いているようです。この川地形の源流は、もしかしたら万代池清明丘中央公園(昔は池だった)かもしれないなと思いました。

 暫く西へと進むと、左手に①相生阪(あいおいざか)と書かれた石碑がありました。さらに西へと進むと、次は右手に②徂親坂(あいしんざか)があります。ちなみに、「徂」は落・崩の意ということだそうです。この西へと続く谷地形に、南から下る坂が①相生阪で、北から下る坂が②徂親坂です。

 次は、西向きの道から左に、南東へと続く道へ鋭角に曲がりました。この鋭角の曲がり道は、かつての川の合流地形です。その道沿いには、右手に③さくら坂、④やしろ坂、⑤みどり坂、⑥みなみ坂、があります。この南東へと進む道も昔の水路の道です。道の中央には、水路(溝)があるようです。③~⑥の坂は、このかつてこの水路で浸食された川筋へと下る坂ということです。

 ⑥みなみ坂を登り谷地形から上町台地上にでて少し進むと、阿部野神社へと続く参道がありました。この参道は、帝塚山駅から北に真っ直ぐ伸びる道です。道の一番北側に阿部野神社があります。阿部野神社でお参りをして、西側の石段(高低差7m)を下りました。この石段の坂は、天王寺七坂と同じく、上町断層沿いに出来た坂です。おそらく海食崖だと思われます。その石段の少し南側に、最後の⑦みや坂がありました。これで、七坂全てに出合うことができました。帰りは、岸里玉出駅から南海高野線に乗りました。

図書館では次の2冊を借りました。

①山と高原地図『高野山・熊野古道』昭文社2021

②ヤマケイ関西ブックス『金剛山 葛城・生駒・紀泉の山々』山と渓谷社2004

観察地・通過地点は、天王寺駅、安倍清明神社、安倍王子神社、①相生阪(あいおいざか)、②徂親坂(あいしんざか)、③さくら坂、④やしろ坂、⑤みどり坂、⑥みなみ坂、阿部野神社、⑦みや坂、岸里玉出駅、です。

 

 仮想研476 上町台地上の川について考える かつて江戸時代に大和川の付け替えが行われる以前は、西除川は北へと現在の大阪市内へと流れていました。今は、付け替えられた大和川へと合流しています。ネットで調べると、「大和川の付け替え前、西除川は現在の松原市付近から北上し、天道川(今川・駒川)として流れていました。天道川は平野川に合流し、大阪城の北側で大川(旧淀川)に注いでいました。大和川は、江戸時代に水害が頻発したため、淀川に流れ込んでいた川を、現在の大阪市と堺市の市境に向けて付け替えられました。付け替え前の西除川・東除川は、大阪城付近にまで達しており、灌漑区域は現在より広い地域となっていました。」ということです。

 また、狭間川も現在大和川へと合流しています。大和川付け替え以前の狭間川の流路は、次のような情報があります。「大和川は、平野を北西に流れていたのが、洪水に苦しむ河内の農民運動もあって、300年余り前に付け替えられて堺の海へと流れを変えました。付け替え工事では、依羅池を通り、狭間川に沿わせるため河道を「く」の字に湾曲させました。」「大和川は、江戸時代に淀川に合流していた川を現在の大阪市と堺市の市境に向けて付け替えられました。付け替え前の大和川は、依羅池(よさみいけ)を通り、狭間川(はざまがわ)という川の流れを利用していました。」と、いうような資料があります。狭間川は、大和川付け替えの時、海へとつながる放水路になったようです。

 そうすると、万代池、清明丘中央公園(昔は池だった)、桃ヶ池(股ヶ池)の水源は、もしかしたら西除川(依網池経由)だった可能性があります。「大阪市住吉区にある万代池(まんだいいけ、ばんだいいけ)は、現在は雨水以外の水源をもたない公園池です。万代池の周辺は万代池公園として整備されています。万代池は、明治の終りころまで灌漑池として利用されていました。昔は付近に人家がほとんどなく、魔物が住むと恐れられていましたが、聖徳太子が曼陀羅経をあげてしずめたことから「まんだら池」がなまったものと伝えられています。」という資料がありました。万代池は、現在水源を持たないということですが、大和川付け替え以前は、依網池とつながり、灌漑池として利用されていたのかもしれません。水源は、西除川かなと考えました。

 今日歩いた阿倍野七坂のある谷地形が、上町台地を彫り込むかなり大きな谷地形だったので、その谷地形を造った川の水源を考えてみました。西除川からつながる万代池や、清明丘中央公園(昔は池だった)を水源とするのか、今後調べていきみたいと思います。しかし一方、もしかしたら川地形ではなくて、上町台地に沿って走る南北方向の上町断層に付随する東西方向の小断層があって、その断層に沿って、かつての海進の時、海食された地形の可能性もあります。