いつ頃からオノマトペと言うようになったのか 2024年2月6日(火)
昨日は、ほぼ一日雨だったので、しらとり公園を少し歩いただけだったのですが、今日は朝から天気が良さそうなので、歩きに出かけようと思います。朝5時に起きて、ブログアップをして、昨日の悠遊探路を書いて、その後英語の本読みをしました。
探路034 観心寺へ行く 今年はウメの開花が早いというので、観心寺のウメを見に、車で出かけました。しかしまだ、ウメの花は殆ど咲いていませんでした。その分、静かな境内をゆっくり歩くことができました。
◆植物は、ウメ、ナンテン、マンリョウ、ロウバイ、アオキ、クチナシ、ツバキ、ツチグリ、の写真を撮りました。
◆虫は、ツヤアオカメムシ、の写真を撮りました。
◆観察地は、観心寺(梅園、金堂、星塚めぐり、御砂踏みめぐり、霊宝館)です。
観心寺について、ネットで情報を調べてみました。「観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。その後、平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。」
金堂は国宝です。「金堂は大阪府下で本堂として最古の国宝建造物であり、七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様の折衷様式の代表的な遺構である。 室町時代初期に建立され、豊臣秀頼の時、江戸時代の中期、明治の初め、昭和の初め等たびたび修理し、昭和五十九年に昭和大修理の落慶をみた。 本尊は如意輪観音で脇侍は不動明王、愛染明王、内陣に板製の両界曼茶羅がある。」
大阪府下で、本堂として最古の国宝建造物ということでした。
仮想研459 「オノマトペ」の用語について 最近、教育番組でも、オノマトペという言葉がよく使われています。自分が先生を始めた頃は、擬音語・擬態語と、国語の教科書には書かれていたと思うのですが、いつ頃からオノマトペと言うようになったのかと、疑問に思っていました。なぜカタカナ言葉なのかと、イラッとしていました。
ネットで調べると、「擬音語・擬態語の名称変遷について」(中里理子/平成19年/上越教育大学研究紀要)の論文を見つけました。内容を少し引用させてもらい、学ぶことにしました。
・現在は名称として「擬音語・擬態語」が一般的であるが、「擬音語」が広まる以前は「擬声語」が多く使われていた経緯があり、「擬態語」は「擬容語」という名称も提唱されたことがある。
・元来、擬声語はギリシャ語Onomatopoeiaの訳語で、広く擬態語を含む述語であった。
・オノマトペは、すでに1960年代に文学作品のオノマトペ研究をしていた小嶋孝三郎氏によって提唱されている。小嶋氏がこの名称を用いた当時は他にほとんど使用されることなく、一般的には依然として「擬声語」「象徴語」等の総称、あるいは「擬音語・擬態語」という併記の形が取られていた。これは、一つには、日本語の大きな特徴であるこの語群を、「オノマトペ」という外来語ではなく本来の日本語で表現しようとする意識が強かったためではないかと推測される。
・近年「オノマトペ」という名称が広まったのは、外来語に対する抵抗感が薄れてきたこと、言語学用語で国際的に通じやすいこと、また、短い拍数で発音しやすいなどが、その理由に挙げられるだろう。さらに、「オノマトペ」という語は、それ自体日本語として何の意味も表さず、ただこの語群をまとめて表す記号的な語であることも、広い範囲で抵抗感なく受け入れられた理由の一つであろう。
・タイトルに「オノマトペ」「オノマトペア」を含む論文は、1960年代には13本(うち12本が小嶋孝三郎氏の論文)、70年代に6本、80年代に20本、90年代に60本、2000~2006年までは166本となっており、オノマトペ研究の広がりとともに、総称としての「オノマトペ」が広まっている様が窺える。
・現在では総称として「オノマトペ」という名称が定着しつつある。
いつ頃から、どのような経緯で「オノマトペ」という用語を使うようになってきたのかが分かりました。しかし、オノマトペと言わないで、何か日本語で表記してほしいと、やはり思います。