富田林街道という記述を見つける 2023年9月6日(水)
今日は朝から一日中雨が降ると、天気予報で言っていたのですが、朝は、まだ雨は降っていません。そこで、今日は近くのフィールドワークに出かけました。遊歩619 菅池~金岡神社 です。
◆植物は、ホドミキンガヤツリ、イネ、の写真を撮りました。
昼前に、道の駅しらとりへ、野菜を買いに行きました。土砂降りの中、しらとりへ車で行きました。車の埃がきれいに流れ去りました。買い物をしている間は、雨は小降りだったので車の乗り降りは楽だったのですが、帰りもまた土砂降りでした。久しぶりに、雨の中を走りました。今日は、しらとり公園一周のフィールドワークは、出来ませんでした。
今日の午前中(しらとりへ行く前)は、用事をいろいろしました。お風呂のタイルの床部分に、お風呂用洗剤をまんべんなく塗りました。前回、お風呂の天井掃除をするとき、キッチンハイターを天井に塗るために買ったスポンジローラーを、今日は床にも使いました。そのスポンジローラーで、お風呂洗剤を広く塗り広げました。2時間ほど放置してから、水で洗い流しました。風呂場の床はとてもきれいになりました。
お風呂掃除の合間に、公園の花の世話と、シャリンバイの間から出てきている、シャリンバイ以外の実生の木の枝(クロガネモチ、ムラサキシキブ、クヌギ、クスノキ、ランタナなど)を切りました。暑い8月は、殆どこの作業が出来なかったのですが、今日は曇り空で27度ぐらいなので、久しぶりに取り組むことができました。蚊の対策をしっかりしました。薄手のジャージではなく、綿のズボンをはいて、蚊よけのスプレーを、腕や足元に振りかけて取り組みました。作業中、体の周りをたくさん蚊が飛び回っている音は聞こえたのですが、蚊には刺されずに作業ができました。猛暑の7、8月に出来ていなかった作業を一気に進められて、公園の低木(シャリンバイ)周辺は、少しきれいになりました。
仮想研306 富田林街道という記述を見つける 今日は、竹内街道に沿った所にある金岡小学校の壁に掲示されている「1930年(昭和の初めのころ)の竹内街道に沿う家並み」という地図をよく見ました。「富田林街道」という記載を見つけました。初めて知る街道名です。ちなみに、自分のブログ「こぎつねさんぽに出かけよう」で「富田林街道」と言葉検索をしても、まだ一度も取り上げていませんでした。現在の府道35号線(堺富田林線)がそれに当たるようです。堺から富田林へ至って、さらに水越峠を越えて御所市に至る道のようです。「竹内街道」は堺から古市を通り竹内峠を越える道で、「富田林街道」は竹内峠の一つ南側の水越峠を奈良へと越える道でした。さらに南海高野線の南側には、「西高野街道」があり、この道は「東高野街道」と合流して、紀見峠を越えて和歌山県の高野山へと進みます。西高野街道のさらに南西側には「天野街道」もあり、河内長野市の金剛寺を通り、滝畑ダムの横から蔵王峠を越えて和歌山県の高野山へとつながる道です。今回初めて知った「富田林街道」を、今後少し探りながら歩いてみようと思います。ネットで情報を調べてみました。
①「大阪府堺市と奈良県御所市を結ぶ街道。堺市の仁徳天皇陵付近で竹ノ内街道と分かれ,南東方向に富田林市,河南町,千早赤阪村を経て,金剛山地を水越峠 (517m) で越え,御所市にいたる。古くから,河内地方と大和地方南部を結ぶ交通路として利用されたが,鉄道の開通により衰微した。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
②「堺と河内国石川郡富田林(現富田林市)を結び、さらに金剛山脈を越えて大和国御所町(現奈良県御所市)に至る。「大阪府誌」によると道の幅員は約八―九尺、大阪府下の行程延長は六里二三町であったという。起点は竹内街道の長曾根村黒土付近で、同地で竹内街道から分岐し、南東に向かい河内国丹南郡に入り、西村・原寺村から北余部村(現南河内郡美原町)の南を通り、西除川を渡り阿弥村の北に出る。次いで東除川を渡り、平尾村(現同上)に入り喜志村(現富田林市)方面への道と分れ、羽曳野丘陵の平尾峠を越えて富田林村に入る。」(日本歴史地名大系)
よい資料が見つかりました。これらの地名を頼りに、富田林街道を歩くことができそうです。