聖徳太子と仁徳天皇を調べる  2021年2月18日(木)

 

 昨日に続き、今日も寒い朝になりました。冬型の気圧配置で、日本海側は雪が降り続いています。午前中は、教科書の仕事をしました。今日は、いいパソコンの使い方を発見しました。4つの単元を書いているのですが、それぞれ二つずつ並べて、順次大きなモニターに映し出して比較しながらそれぞれの単元の言葉の使い方や、扱っている素材の統一や、書式の調整をしました。ノートパソコンの小さな画面上では、二つのファイルを同時に開いて比較するのは見にくいのですが、ノートパソコンを大きなモニターにつないでいるので可能でした。これで、単元間の統一性を図ることができました。グッドアイデアでした。なんでも長い時間いろいろ試しているうちに、よりよい方法を身に付けていくんだなと思いました。

 最高気温は6℃ぐらいですが、日差しがあるので、午後から歩きに出ました。遊歩(30) 昭和町駅~堀越神社~四天王寺~高津宮~空堀商店街~心斎橋駅 を歩きました。堀越神社と四天王寺で、お参りをしました。四天王寺では、亀の池のカメを見ました。やはり冬眠からさめて、数匹泳いでいました。しかし今日は寒い日なので、甲羅干しをしているカメはいませんでした。

今日は、歴史について調べてみました。

 四天王寺は、593年に建立されています。推古天皇の時、聖徳太子により建立。

高津宮について調べてみました。「難波高津宮に遷都した第16代天皇である仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。1872年(明治5年)に府社に列格した。」とあります。

 仁徳天皇も調べてみました。「4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇。譽田天皇(応神天皇)の第4皇子。母は五百城入彦皇子の孫・仲姫命(なかつひめのみこと)。譽田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨御により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝と称され、その治世は聖の世と称えられている。」と(Wikipedia)には書かれていました。この上町台地の中央に都を造り政治を行ったのでしょうか。そして、御陵は、その都から南方に当たる、今の大仙古墳ということなのでしょう。仁徳天皇が実在したとしたら、紀元400年前後になるようです。四天王寺建立よりも200年前の人に当たります。仁徳天皇は第16代天皇、推古天皇は第33代天皇です。仁徳天皇と聖徳太子の時間的な関係が分かりました。

心斎橋駅近くで、今日は、メモ帳とペンを買いました。昨日読んだ本に、読んでいるだけでは学習にならない。自ら考えることが大切だということが書かれていたので、歩いた後の帰りの電車の中で、今日出会ったでき事についてメモをして、疑問点や考えたことを書くようにしようと思いました。