知ってるつもり 2021年1月16日(土)
今日は朝から、雨が降ったりやんだりの一日でした。足に靴擦れができていて、踵が痛いので、今日の午後からは、読書をしました。
◆図書館蔵書ネット送信のことが、新聞に載っていました。「●文化庁文化審議会著作権分科会の法制度小委員会は15日、図書館の蔵書を電子データ化し、インターネットで利用者に送信できるようにする著作権法の改正に向けた報告書をまとめた。同委員会が昨年12月に公表した「中間まとめ」へのパブリックコメントを反映し、新刊本を送信対象とする記述を削除。新刊本の扱いは、今後検討するガイドラインなどで示すべきだとした。」 ネット上の意見を見ると、著作権に関して図書館の電子データ化には反対をしている意見が多くあり、本の文化がなくなっていくということを訴えているのですが、もう、時代が変わってきているように思います。電子書籍で出して、そこで儲けられるようにする方法に移行していかなければいけない時代に来ています。音楽業界が変わってきているように、本も何らかのネット上の有料サイトから読むようにしていくのでしょう。また、これまでの過去の本は、やはりデジタル化される必要があり、自由に検索ができる中で、次の文化が育つようにしてほしいと思います。
◆スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバク『知ってるつもり無知の科学』土方奈美訳/早川書房2018年 を読みました。アメリカの認知科学者が書いた本です。海外の本と、日本の学者の書いた本と、どうも論の進め方が違うように思います。外国の学者は、壮大なたくらみを、ぐいぐい論理的に書き進めていくように感じます。
「インターネット検索しただけで、分かった気になりがち。極端な政治思想の持ち主ほど、政策の中身を理解していない。多くの学生は文章を正しく読めていないが、そのことに気付いていない。」
「人はなぜ、自らの理解度を過大評価してしまうのか? 私たちが高度な文明社会を営めるのはなぜか? なぜ人は薄っぺらな主張に流され、浅はかな判断をするのか?」
「人間は自分が思っているより、ずっと無知である。無知であるという自覚の欠如が、ときとして不合理な判断や行動というかたちで個人や社会に危険な影響をもたらす。」
「私たちを取り巻く世界は余りに複雑で、すべてを理解することなどとてもできない。そこで人間の知性は、新たな状況下での意思決定に最も役に立つ情報だけを抽出するように進化してきた。頭の中にはごくわずかな情報だけを保持して、必要に応じて他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々の中に蓄えられた知識を頼る。人間にとってコンピュータの外部記憶装置に相当するものを「知識のコミュニティ」と呼ぶ。知識のコミュニティによる認知分業は文明が誕生した当初から存在し、人類の進歩を支えてきた。これが知識の錯覚の起源である。」
「私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。できないというより、そもそも明確な境界線など存在しない。」
「知らないことを知っていると思い込むからこそ、私たちは世界の複雑さに圧倒されずに日常生活を送ることができる。」
「なぜ理解もしていない事柄に、明確な賛否を示すことができるのか。それは私たちが、自分がどれだけ知っているかを把握しておらず、認識のよりどころとして知識のコミュニティに強く依存しているからだ。コミュニティのメンバーは、それぞれあまり知識はないのに、特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。メンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。」
「本当の賢さとは何か。これまで個人の知能指数(IQ)によって賢さを測ろうとしてきた。しかし人間の知的営みが集団的なものであれば、「集団にどれだけ貢献できるか」を賢さの基準とすべきではないか。記憶容量の大きさや中央処理装置の速度といった情報処理能力と並んで、他者の立場や感情的反応を理解する能力、効果的に役割を分担する能力、周囲の意見に耳を傾ける能力なども知能の重要な構成要素と見なすべきである。」
政府のコロナ対策に対する最近のマスコミの対応、インタビューの恣意的な利用による煽り行為、「対応が遅すぎる」とインタビューに答えている渋谷スクランブル交差点の若者、「対応にふりまわされた」と言う受験生などなど、何か変だなと感じます。