日本遺産「葛城修験」の犬鳴山七宝瀧寺に行く  2020年7月22日(水)

 

 これまでの習慣で、電気保温ポットをずっと使っていました。冬の間は、緑茶を飲むときにお湯が常にあれば便利でした。夏の間は、毎日飲むジャスミンティーを作るのに、ポットの湯を使います。6月ごろから、自分でジャスミンティーを毎朝1リットル作る係を始めてから、ポットの湯の管理もするようになりました。自分がポットの湯の管理を始めてから気が付きました。インスタントコーヒーを飲んだり、カップヌードルなどを食べたりするような習慣はないので、もしかしたら、常に湯を沸かした状態を保っている電気保温ポットは我が家にはいらないのではないかと、最近になってやっと思うようになりました。何を寝ぼけたことを言っているのかと思われますが、今頃、気が付きました。昔からの習慣というのは、なかなか脱却できないものです。そこで、電気ポットの使用をやめて、ティファールの湯沸かし器を買いました。湯が必要な時に、瞬時に沸かすことができる電気ポットです。保温機能はなくて、使い切りです。毎日のジャスミンティーを作るには300mlぐらいの沸騰した湯があれば十分なので、その時沸かせばよいのです。湯を入れたガラスポットでジャスミンティーをしばらく抽出した後、水を足して1リットルにします。歩きに出かける時は、そのジャスミンティーを水筒にいれて持って出ます。昔、われわれが子どもの時は、毎朝、麦茶を大きなやかんで作って、水分補給のために、飲んでいたことを思い出しました。夏は、常に少しずつ水分補給が必要です。1リットルのガラスポットにお茶を作っておいて、夜までに飲み切るようにすることは、摂取した水分量がよく分かるので、いいことだと思います。

 たぶん、このティファールの湯沸かしポットも、本当は必要がないのです。やかんがあれば十分なのですが、オシャレなやかんを買うことと、ティファールを買うことはほぼ状況は同じなので、電気湯沸かし器を買いました。メタリックの赤色なので、紅一点、キッチンが明るくなりました。10万円の使い道の第二弾となりました。日立の充電式掃除機5万円の次の、ティファールの湯沸かし器6000円です。まだ、4万4000円残っているので、スッキリ生活に使いたいです。給付金10万円は、社会経済の活性のために使い切るように考えています。次は、本屋さんで、無駄使いを考えます。キノコの図鑑が家には2冊しかないので、もう一冊、調べやすい図鑑を探そうかなと思います。

 

 今日は、10時頃家を車で出発して、犬鳴山へ歩きに行きました。行くときは、高速道路を通らなかったので、かなり時間がかかりました。帰りは阪和自動車道を通りました。犬鳴山バス停の横に駐車場があり、車を停めてそこから川沿いを片道1.5㎞ほど歩いて七宝瀧寺本堂までフィールドワークをしました。涼しい川沿いを歩きました。中生代白亜紀の和泉層群の礫層や砂泥互層が連なる谷道でした。大阪に住みながら、初めて歩くコースでした。今回行った、犬鳴山七宝瀧寺、2020年に日本遺産に指定された日本遺産「葛城修験」の地の一部です。

 

 泉佐野市観光サイトから、七宝瀧寺について調べてみました。

●犬鳴山は、1300余年前に修験道の霊場として修験山伏道の開祖といわれる役(えん)の小角(おづぬ)「役の行者(えんのぎょうじゃ)」によって大和大峯山より6年早く開山され、現在でも行者の滝に打たれる修験者の姿を見ることができる。麓の温泉街は、従来七宝瀧寺の門前町であったところから犬鳴温泉郷として今日に至っている。植生は、スギ、ヒノキの人工林が多く集約的な林業が行なわれ、コナラ、リョウブ等の広葉樹も広く分布し、モミジ、カエデの紅葉美も添え、わが国古来の多彩な自然が残されている。

<義犬伝説>

天徳年間(957~961年)紀州のある猟師が鹿を追って滝のあたりに来た時、連れていた愛犬がうるさく吠えたてました。そのせいで獲物を取り逃がした猟師は、怒って犬の首をはねてしまったのです。愛犬の首はそのまま踊り上がって、猟師を呑もうと狙っていた大蛇にかみつき、蛇とともに息絶えてしまいました。犬が吠えたのは、主人の危急にいち早く気づき、救おうとしたからでした。この心を知った猟師は悔いて修行者となり、愛犬をねんごろに供養し、また自分の田地を不動堂に寄進しました。

この時より宇多帝(うだてい)より犬鳴山と勅号を賜うたのである。

<犬鳴渓谷>

犬鳴山中には、大小四十八滝があり、その中で特に両界の滝、塔の滝、弁天の滝、布引の滝、古津喜の滝、千手の滝、行者の滝の七瀑が有名で、伝説に彩られた名刹を始め雄大な山岳景観や四季折々の美しい渓谷の自然に恵まれている。

 

 和歌山市ホームページでは、日本遺産について調べました。

●『「葛城修験」- 里人とともに守り伝える修験道はじまりの地』が令和2年度「日本遺産」に認定されました。

 自然の中で厳しい修行をおこない悟りを得るという日本独特の修験道、その開祖の役行者が最初に修行した地が「葛城修験」の地とされています。この地は、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部である奈良の大峰山と対をなし、古くから最も重要な行場とされてきました。和泉山脈から葛城・金剛山系にかけて、法華経が埋納されたという28の経塚を巡る「葛城修験」の第1番目の経塚があるのが、本市の友ヶ島です。加太では友ヶ島にわたる修験者の姿が風物詩となっており、修験者を迎える文化が息づいています。

 「日本遺産(Japan Heritage)」は、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものです。ストーリーを語るうえで欠かせない魅力あふれる様々な文化財群を、地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

 今回の認定を契機に、地域の皆様や関係者の方々とともに力を合わせ、より一層、本市の個性豊かで魅力的な歴史文化遺産を生かしたまちづくりに取り組んでいきます。

【申請者】

代表:和歌山県

和歌山県(和歌山市、橋本市、紀の川市、岩出市、かつらぎ町)

大阪府(岸和田市、泉佐野市、河内長野市、和泉市、柏原市、阪南市、岬町、河南町、千早赤阪村)

奈良県(五條市、御所市、香芝市、葛城市、王寺町)

【ストーリーの概要】

 和歌山~大阪~奈良の境に聳える葛城の峰々。修験道の開祖と言われる役行者(えんのぎょうじゃ)がはじめて修行を積んだこの地は、世界遺産の吉野・大峯と並ぶ「修験の二大聖地」と称されています。この地には、役行者が法華経を1品ずつ埋納したという28の経塚があり、今も修験者たちは、その経塚や縁の寺社、滝や巨石を巡ります。そしてその修行にはいつの時代も、この地に暮らす人々との深いつながりがありました。修験者や地域の人々が大切にしてきた聖地「葛城修験」――修験道の歴史は、ここから始まりました。

 

 「修験の道」のホームページでは、次の情報を得ました。

●葛城修験について

1.葛城修験とは

 大峰山と並ぶ修験道の聖地・葛城山は、大阪・和歌山県境を東西に連なる和泉山脈から北上して奈良・大阪県境の金剛山脈へと連なる峰々の総称です。この山系には修験道の開祖・役行者が法華経八巻二十八品を埋納したとの伝承による経塚があり、葛城二十八宿と呼ばれています。西は和歌山県加太町の沖に浮かぶ友が島(序品経塚)から犬鳴山(第八品)、和泉葛城山(第九品)、牛滝山(第十品)、岩湧山(第十五品)を経て金剛山頂(第二十一品)に至り、さらに北上して大和葛城山から二上山(第二十六品)、そして大和川沿いの亀の瀬(第二十八品)に至るまで各所に経塚や行場が連なっています。また、このルートに沿って葛城修験の中心寺院である犬鳴山七宝瀧寺、金剛山転法輪寺をはじめ根来寺、粉河寺、槇尾山施福寺、當麻寺など多数の霊場寺院や神社があります。

 

2.役行者の伝説と法華経の峰

 役行者(役小角)は、すでに奈良時代から傑出した山伏(修験者)の代表的存在として知られていました。山伏とは、まさに山野に伏して修行し、呪術的験力を獲得した者のことで、中世以降になると役行者は修験道の開祖と仰がれるようになり、役行者1100年の御遠忌を迎えた寛政8(1799)年には「神変大菩薩」の諡号を授与され、現在に至るまで篤く尊崇されてきました。

 役行者は、舒明天皇6(634)年に現在の奈良県御所市茅原の地に生まれました。現在、誕生所に建つ茅原山吉祥草寺には、役行者産湯の井戸も残されています。この茅原の里から西方を眺めると、すぐ間近に金剛山を主峰とする葛城山系が望見されます。『日本霊異記』をはじめ伝記の伝えるところによれば、役行者は若いときから葛城の山中に分け入り、洞窟にこもって修行を重ね、孔雀明王の呪法を体得し、不思議な験力をもって鬼神を自在に使役したといいます。ことに『日本霊異記』には、役行者が葛城から大峰山に通いやすくするために葛城山と吉野・金峰山の間に橋を架けさせたとの逸話を伝えています。

 中世以降になると、真言密教の金胎両部の曼荼羅を表する「密の峰」である大峰山に対して、葛城山は、役行者が法華経二十八品を埋経したことから「顕の峰」あるいは「法華経の峰」と考えられるようになりました。

 

3.葛城二十八宿

 葛城修験は、明治初年の神仏分離・修験道廃止令により衰退し、その間に地元の伝承が失われたり、あるいは二十八宿の経塚や行所の所在が分からなくなったり、場所が移動してしまったりと困難な状況に立ち至りました。しかしながら、戦後になって天台寺門宗の当時の宗務総長・中村鍵寿師等の助言を得て、犬鳴修験道の大本山七宝龍寺、本山派の聖護院門跡によって実地調査が行われ、現在の二十八宿の経塚の所在が確定されました。