熊野街道「和泉橋本駅~山中渓駅」を歩く 2020年3月18日(水)
今日は、第3回目の、熊野街道歩きをしました。前回の続き、和泉橋本駅から山中渓駅までを歩きました。和泉橋本駅を、10時35分に出発しました。和歌山貝塚線(大阪府道64号線)を通り、南海本線井原野駅の近くを通ります。案内マップに熊野街道として示されている道は、この64号線から少し外れて右や左の脇道を時々通るのですが入り口が分かりにくく、それらの道を歩くことなく、幹線道路を通ってしまいました。家に帰ってからグーグルマップで確かめて、少し違っていたことが分かりました。
64号線から佐野王子跡へと分かれる分岐点(赤と白の鉄塔)は無事分かりました。実は、64号線自体もここから分岐していて、ここから先の64号線は、少し昔の街道らしく、くねくねした道になっていきます。左に入ってすぐに、佐野王子跡がありました。さらに進むと、国道26号線と斜めに交差して、府立佐野高等学校の西側を通りました。そして関西空港線と、関西空港自動車道のガードの下をくぐります。ガードの下でしばらく休憩をして、持って来たクッキーを少し食べました。
泉佐野長南公民館の横を通り過ぎると64号線はさらに細くなり大きくうねるようになり、樫井川の明治橋を渡るまでの間は、古い町並みが保存されています。その一角だけが、映画のセットのような感じで、車も多く通ることはありませんでした。今日初めての、街道らしい所を通りました。
樫井川を渡る明治橋の横には、大阪夏の陣の古戦場と書かれた石碑があります。橋を渡ってから道は少し広くなり、海会寺跡、泉南市立埋蔵文化センターの前を通ります。このあたりから、熊野街道では初めて坂道となります。段丘面の上へと登ります。和泉砂川駅に近づくと、信達宿が始まり、大阪府内の熊野街道の中で一番の宿場町の風情を残す所です。野田藤で有名は梶本邸もあります。大きな藤棚は見られましたが、花はまだ時期ではありません。信達宿については、泉南市のホームページに次のような案内があります。
「泉南市信達市場は、古代から中世へ。社会が大きく変動する中で、都の皇族や貴族、有力武士たちが、心の安らぎを求めて熊野大社(くまのたいしゃ)へ参詣するようになります。それまで南海道と呼ばれていた紀伊に通ずる道は、熊野街道(大道)と呼ばれるようになり、熊野詣(もうで)の一行で大いににぎわいました。市内には熊野九十九王子のうち、厩戸(うまやど)王子などが祀られ、また信達宿には後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)や歌人・藤原定家(ふじわらのていか)なども宿泊したと記録に残っています。こうして栄えた街道の秩序を守るため、周辺の人々には重い負担が課せられたのですが、熊野詣が人々にもたらしたものは決してそれだけではありません。熊野へ向かう一行と共に都の多くの文化が、街道沿いには伝えられたのです。特に信達宿は、和泉南部においては最も栄えた宿場(しゅくば)町のひとつであり、現在も見られるように、街道沿いに家々が建ち並ぶ様は、当時の熊野街道や信達宿の様子を実に良く伝えています。時代とともに町並も変わりつつありますが、本陣(ほんじん)跡、旅籠(はたご)跡、常夜灯(じょうやとう)が残り、昔の宿場の様子をしのぶことができます。古い家屋は、入母屋(いりもや)造りで妻入(つまい)りのものが多く、街道に面して間口が狭く、奥が深いのが特徴とされています。」
和泉砂川駅近くで少し珈琲タイムをしてから、信達宿を過ぎました。岡中という信号で一度64号線から離れて旧道を通り和泉鳥取駅へと向かいます。阪和線のガードの下を通り、岡中の町の中を通る古くからの道を歩きます。和泉鳥取駅まで来ると、ここで再び64号線と合流して、熊野街道はいよいよ和泉山脈の中へと分け入って行きます。川を渡る時、河原を見ると和泉層群の地層も見られます。山が道の両側に迫ってきています。堺市から3回に分けて歩いてきた熊野街道も、和歌山へと越える山道になってきました。今日の目的地にしている山中渓駅は、和泉山脈を横断する入り口にあたります。山中渓駅周辺にも、昔の熊野街道を復元したような歴史的風景を残すための整備がされた地域がありました。15時15分に山中渓駅に到着し、30分発の電車に乗って帰ることができました。