浅田次郎『君はうそつきだから、小説家にでもなればいい』を読む 2020年1月30日(木)
昨日は舞鶴の小学校へ行ったので家に帰るのか遅くなりましたが、今日は頑張っていつも通り幼稚園に行きました。子ども達と出会った早々、「昨日はなんで来ていなかったの!」と聞かれて、今日も頑張って幼稚園に来てよかったなと思いました。こぎつね母とも話をしました。「最近、子どもと山登りをしています。金剛山、二上山、ポンポン山と登りました。ちょっとおたずねですが、ポンポン山の頂上で、地面を足でたたくと、ポンポンとなるのはなぜですか。また、クマに注意と書いていたのですが本当にクマが出るのですか。」と、おたずねをされました。「ポンポン山で、ポンポンと音がなるというのは、自分も感じたことがあります。なぜか分かりません。花崗岩の風化した土でできている山だと思うのですが・・。」と答えました。クマに関しては、昨日舞鶴に行った時、今年は暖かくてクマがまだ活動しているようなので危険ですと言っておられたことを伝えました。さらに、「きつね先生は、歩く時、スズやベルを付けていますか」と聞かれて、「これまで付けていなかったのですが、昨日の話を聞いて、これからつけようと思いました。」と、話をしました。
午後からは、難波や天王寺駅の周辺は観光客が多いので、こぎつね幼稚園の帰り、上本町で近鉄電車を降りて、谷町筋を南へ歩き、四天王寺、阿倍野を通り過ぎ、長居で地下鉄に乗りました。途中、阿倍野のモスバーガーで読書タイムを1時間すごしました。
浅田次郎『君はうそつきだから、小説家にでもなればいい』2011文芸春秋、を読みました。次のようなところを、書き出してみました。
「もともとさほどの創作意欲があったわけではなく、読むという習慣が昂じて書くようになった。だから書くことが本業となった今日でも、最大の娯楽である自由な読書の時間は、毎日きちんと確保している。一日に4時間ほどであろうか。私は若い時分からたいそう早起きで、ほとんど禅僧のごとき時間割を持っているから、たとえ締め切り前でも執筆は午後の早い時間までである。それから日が暮れるまでは、特別の予定がない限りは読書をする。いやむしろ、概ね午後2時から午後6時までの4時間を忽にできない読書時間と定めて、起床から就寝までの一日を組み立てていると言った方が正しい。」
「一日に4時間という制約にも理由がある。私の読書する速度がだいたい時速100枚、すなわち1時間に400字詰原稿用紙で100枚だからである。書物というものは、とりわけ小説というものは、なるたけ途中で栞を挟まず、一気呵成に読みたい。そうした私流の読み方を最も合理的に実践できる時間がこれ、ということになる。つまり一日に一冊の書物をきちんと読んでいくためには、4時間が適当であるとわかっていたので、若いころには、夜間をそれにあて、作家という自由業になってからは午後を充当することにした。むろん書物にはそれぞれの厚さがあり、難易度の違いもある。だがあらゆる書物のうちおよそ半分ぐらいは、この「一冊4時間」に該当すると思う。プラスマイナス1時間の余裕を持てば、8割方の書物がこの範囲内ではなかろうか。かくしてほとんど栞を挟むことない一日一冊の習慣は、今も続いている。ちなみに、この計算の基礎となる「時速100枚」は、実は他人と比べて相当に遅い。朗読とまでは言わぬが、音読の速度である。さほど馬鹿ではないと思うのだけれど、とにかく万事に要領を得ぬ性格なので、音読以上の速度で黙読ができない。だから「一日一冊4時間」という計算は、あくまで個人的な尺度による。」
「小説家としてデビューするまで、30年近くも売れぬ物語を書き続けてきた。その気の遠くなるような時間を担保していたのは、小説家になりたいという夢ではない。文学に対する情熱のみである。ことに、「書くよりも読め」という長崎さん(高校の先輩)の訓えはまさに至言だった。私は大学にも進まず、文学の友のひとりとて持たぬまま作家になったが、多年にわたる読書量のおかげで劣等感を抱いたためしがない。長崎さんの図書カードの後を追って、それこそモリエールから内藤湖南まで、シェークスピアから陶淵明まで、古今東西あたるを幸い読み倒した結果、分類不可能の面白い小説家になった。読書は訓え通りに一日一冊、よほどの締め切りに追われぬ限りいまだに続けている。」
私は、一日2時間読書をして、二日に1冊ペースで読むようにしています。