熊野街道窪津王子と天王寺七宮のこと  2020年1月4日(土)

 

 今日は、午後から歩きに出ました。家で後輩の原稿校正のためにパソコンに向かってばかりいると太ってしまうので、思い切って出発することにしました。昨年も、4日に歩いていることが5年日記に書いていました。

 今日は、天王寺から、堀越神社、四天王寺、愛染堂勝鬘院、大江護国神社、生國魂難波神社にお参りをしながら、難波へと歩きました。日頃は通過してしまう場所ですが、今日は手を合わせながら新年の祈願をしました。どこの神社も、たくさんの人がお参りのために参道に長く並んでいました。並んでいる時間はないので、かなり手前から、また、斜め横から自分なりに手を合わせるようにしました。

 堀越神社について調べてみました。

 

「堀越神社の由来:第33代推古天皇の御代、時の摂政聖徳太子が、太子の叔父君に当たらせられる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚にして長松直々たる茶臼山の地をえらばれ、四天王寺建立と同時に当社を創建されたものであります。古くより明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名が付けられたといわれています。この地は、有名な慶長・元和の大阪冬の陣、夏の陣の古戦場としてかずかずのエピソードと共に知られています。」とありました。

 文中の美しい堀というのがどのような感じのものなのか気になるのですが、またいずれ、その情報にも出会えるかもしれません。現在の谷町筋がこの堀越神社の手前で大きく下がっているのがその堀の跡だとは分かるのですが、全体像のイメージはつかめません。

 

 今回初めて発見したのですが、熊野九十九王子の1番目の窪津王子(くぼつおうじ)が、堀越神社の摂社・「熊野第一王子社」に合祀されていました。もともとは、八軒家船着場のすぐ近く天満橋付近にあって、現在その跡には坐摩神社行宮が建っています。

 ネットで調べると、「窪津王子は、後に四天王寺西門付近の熊野神社に遷座し、その後 この堀越神社に合祀されました。神社の面している谷町筋は熊野街道で、第4王子の上野王子と、第5王子の阿部の中間に位置します。また、少し手前の四天王寺の境内には「熊野権現礼拝石」があり、熊野を目指す人々は最初に此処を拝むべしとされていたそうです。遷座された時期はわかりません。江戸時代隆盛であった京都~大阪を結ぶ淀川の三十石舟は鉄道にとって代わられ、八軒家からの熊野詣も次第に忘れられていたのかも知れません。(又は、大阪城築城の時に移動したと書いているネット情報もあります)」と書かれていました。

 熊野街道の一番目の王子が、この堀越神社に引っ越しされてきていることを知り、新年早々ラッキーでした。今年の街道歩きに、エネルギーをもらいました。

 

 四天王寺は、回廊の内側に入るのにはお金がかかるので、カメの池を見てから、六時礼讃堂と大黒堂でお参りをしました。愛染堂勝鬘院では、愛染明王を見ることができました。

 

 愛染堂は、ネットで調べると、「日本最初の社会福祉施設、施薬院(せやくいん)として建立。愛染堂の歴史は、今を遡ること1400年ほど昔の飛鳥時代、西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる四天王寺を建立されました。 その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと四天王寺の北西の角(現在の愛染堂の場所)に建立されたのです。当時の面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと、我が国の社会福祉事業発祥の地とも言えます。施薬院から勝鬘院(しょうまんいん)へ。施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは、このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお経を人々に講ぜられていたため、そして勝鬘経に語られるお姫様・シュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の仏像が本堂に祀られているため、勝鬘院(しょうまんいん)と呼ばれるようになりました。主な堂塔として、徳川秀忠(二代目)による再建の金堂(府の指定文化財)と、豊臣秀吉による再建の多宝塔(国の重要文化財・旧国宝)があります。 勝鬘夫人坐像勝鬘院から愛染堂。正式名称は勝鬘院ですが、平安時代以降は金堂に愛染明王が本尊として奉安され、愛染明王信仰の普及とともに、勝鬘院全体が愛染堂と通称されるようになりました。」

とありました。四天王寺の中のお堂の一つだったことを知ることができました。

 

 大江護国神社でもお参りをしました。ここもネットで調べると、次のような四天王寺の一角のお宮だったようです。

「大江神社は四天王寺の鎮守社である四天王寺七宮のひとつとして聖徳太子によって創建された。当初の祭神は天王寺北村の産土神である豊受大神である。後に神仏習合して毘沙門堂が建立されて毘沙門天を祀るようになると、四天王寺の乾の方角にあることから「乾の社」と呼ばれるようになった。そして境内には如意山神宮寺が建立され、神社の祭祀も四天王寺の僧徒が行うようになっていった。しかし、幕末になり神仏分離の動きが出てくると、慶応3年(1867年)に大江岸にちなんで名称を大江神社と改めた。明治に入るとついに神宮寺を廃寺とし、毘沙門堂も廃した。この際に祀っていた毘沙門天は滋賀県大津市坂本の比叡山戒藏院に遷している。」

 

 次に、四天王寺七宮についても調べてみました。

「四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として造営された神社群である。いずれも現在の大阪市天王寺区に位置し、以下の七つの神社を指す。

①大江神社(夕陽丘町)

②上之宮神社(上之宮町) - 大江神社に合祀。

③小儀神社(勝山1丁目) - 大江神社に合祀。四天王寺東門前。

④久保神社(勝山2丁目)

⑤土塔神社(大道1丁目) - 大江神社に合祀。四天王寺南門前。

⑥河堀稲生神社(大道3丁目)

⑦堀越神社(茶臼山町)」

 先日、四天王寺を通り抜けて、東門から出たところで、小儀神社跡を見た時、そこに四天王寺七宮の一つと書かれていて気になっていました。七宮の内の三宮、大江神社と小儀神社跡と堀越神社は確認できています。また、河堀稲生神社と久保神社は、難波大道を北へと歩いている時、すぐ前を通ったことがあります。そして、ネットで調べると、上之宮神社、小儀神社、土塔神社は、なんと、大江護国神社に合祀されているようです。次回、大江護国神社に行ったとき、それらの神社も確認したいと思います。そうすると、四天王寺七宮を全部、見ることになります。