聖天山・茶臼山・御勝山・真田山(宰相山)を歩く 2019年12月29日(日)
今日は天下茶屋駅から、聖天山(14m)・茶臼山(26m)・御勝山(14m)・真田山(宰相山)(15m)をめぐって、玉造駅まで10㎞のフィールドワークをしました。
まず、天下茶屋駅を出て、商店街を東へと歩いていくと、聖天山公園へとつながっていました。聖天山公園の横にある正圓寺にお参りしてから、聖天山古墳を探したのですが、どこか分かりませんでした。ネットで調べると、つい最近、顕彰史跡に指定されたようです。次回、もう一度行って、その場所を探してみたいと思います。
「聖天山古墳 顕彰史跡に 大阪市教委 2019年10月24日
大阪市教育委員会は本年度、新たに同市阿倍野区松虫通3丁目の「聖天山(しょうてんやま)古墳」を顕彰史跡に指定した。古墳からは6世紀後半のものとされる横穴式石室が出土しているものの、発掘調査から約70年たち、正確な場所を誤認されることが多いという。堺市の仁徳天皇陵を含む百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産に登録されたばかりだが、指定には地元住民ら有志の要望も背景にあり、「大阪市の古墳にも目を向けて」と存在をアピールしている。「顕彰史跡」は、1959年の市制70周年記念事業として始まった制度で、市内の史跡や文化財を顕彰する。第1号は同年指定の「大阪会議開催の地」(中央区)で、他に真田丸出城跡(天王寺区)や大阪国技館跡(城東区)が名を連ねる。本年度は2件が指定され、聖天山古墳は第236号となる。市教委によると、51年の発掘調査では横穴式石室内から須恵器、鉄刀などの副葬品や人骨が出土。同様の規模、構造を持つ古墳が集合する「群集墳」とみられる。近くでは2年前、5世紀のものとされる円筒埴輪(はにわ)が出土しており、一帯で5~6世紀ごろに複数の古墳が築かれたとみている。出土品が見つかったのは、阿倍野区にある聖天山公園内の斜面。字名から北天狗(てんぐ)塚古墳とも呼ばれ、地元が木札を建てて顕彰していたが、その後散逸した。近くの小高い丘にクスノキの大木が自生していることから、同区出身の郷土史研究家、難波りんごさん(64)は「これが古墳の位置だと誤解されてきた」と指摘。難波さんを含む有志が、正確な位置の顕彰を求めてきた。市教委は今月16日、発掘地に当たる公園の一画にパネルを掲示。公園に隣接する正圓(しょうえん)寺は、飛鳥時代を起源とする阿部寺(廃寺)の塔頭(たっちゅう)と伝わり、この地は鎌倉時代の随筆家、吉田兼好が隠とんした地でも知られる。難波さんは指定を「うれしいし、ありがたい。『百舌鳥・古市』だけでなく、大阪市にも目を向けてほしいし、街歩きでも活用してもらいたい」と指定を喜ぶ。大阪市内の古墳は、茶臼山古墳(天王寺区)や帝塚山古墳(住吉区)をはじめ、市の南北に延びる上町台地に集中しており、一帯が当時の陸地であったことが推測できる。市教委文化財保護課の桜井久之主任学芸員は「大阪市では、堺市と比べて地上から見られる古墳がごくわずかしかない。古墳時代後期に群集墳が造られたことを、市民に知ってもらう一つの手掛かりになれば」と期待を寄せる。」
新たに設置された聖天山古墳のパネルを見つけることは出来なかったのですが、およその場所は分かりました。聖天山からは、あべのハルカスに向かって北上しました。上町台地の崖のすぐ上側の細い道を通りました。ハルカスの横を通り、天王寺公園を通り抜けて、茶臼山に登りました。なぜか多くの人が頂上近くに登っていました。真田幸村のことが詳しく解説したパネルがありました。茶臼山古墳についても、ネットで調べてみました。
「茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳。大阪府指定史跡に指定されている。古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されている。公園本体との間には河底池(かわぞこいけ・こそこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)があるが、これは788年(延暦7年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われる。同地を古墳とするかは説が分かれる。古来荒陵、または荒陵山と呼ばれてきた同地は古墳と伝承され、ここから発掘されたとされる石棺蓋が四天王寺に伝わっている。古地図の形状からも追認され、そのため従来前方後円墳といわれてきた。しかし1986年(昭和61年)の発掘調査の結果では埴輪や葺石などが確認されなかったことから、「古墳ではない」とする説も現れた。一方、四天王寺境内の発掘調査で埴輪などが出土しており、茶臼山古墳を含めさらなる周囲の発掘の進展が望まれている状況にある。2009年(平成21年)の発掘調査で水銀朱を塗られた石室らしきものが発掘されたことが発表されている。古墳自体は5世紀にこの地の豪族のために作られた墓といわれ、大阪市内でも最大級の前方後円墳だが被葬者は不明である。1546年(天文15年)、細川晴元の家臣山中又三郎が古墳の後円部に大塚城を築く。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。」
茶臼山を下って、四天王寺を、西門から入って東門へと通り抜けました。東門から出て、そのまま真っ直ぐ東に向かって歩き環状線の外側に出て少し進むと、御勝山古墳につきました。御勝山古墳は、周りをしっかり鉄の柵で囲まれていて、中に入ることができません。柵の外から、その高まりを見ました。
「御勝山古墳(おかちやまこふん)は、大阪市生野区勝山北にある古墳。墳長約120mの前方後円墳である。この古墳は一説によると、大小橋命(オオバセノミコト)の墓であるといわれているが定かではない。江戸時代以前は「岡山」とも「丸山」とも称していたが、戦国時代には大坂本願寺の出城である丸山城があった。大坂冬の陣において将軍徳川秀忠が陣を敷いて勝利を得たことにより、岡山を改め御勝山と称したのが名前の由来である。現在は、古墳の中央を勝山通が貫いている。古墳付近は少し盛り上がっている。前方(南)は崩されて史跡公園「御勝山公園」になっている。後円部は、原形をとどめている。後円部の東側は桑津街道、鶴橋街道、俊徳街道の交点となっており、かつては交通の要所であった。1980年代に短期の発掘調査が行われた際、陶器の破片などが発見された為やはり古墳ではないかとの期待が高まったが、調査期間や予算の都合などにより詳細な調査を行うには至らなかった過去がある。1990年の調査で大阪市域では最古とされる縄文時代前半の土器片が発見された事により、この附近は勝山遺跡と名付けられた。」
最後は、真田山に向かいます。御勝山古墳から緩やかにカーブしている歴史の道(茨神社通り)を北上し、鶴橋駅近くの混み合っている商店街の中を通り、さらに少し北上してから環状線の内側に入ると、真田山公園に着きました。真田山公園の北側には三光神社があり、その横に宰相山があるようでした。三光神社には、真田幸村の像が置かれていて、大阪城からの抜け穴と言われる所もありました。ネットには、真田幸村について詳しい解説があったので、長くなるのですが、引用させてもらい学ばせてもらいました。
「慶長19年(1614)10月、真田幸村(信繁)は豊臣秀頼からの招きに応じ、蟄居先の紀州九度山(和歌山県九度山町)を脱出し、勇躍、大坂城に入った。10月1日には、徳川家康が諸大名に大坂攻めへの出陣を命じており、豊臣・徳川両家は既に戦闘状態にあった。大坂城は、北には淀川の大河が流れ、西には海が迫り、東は幾筋もの川が流れて広大な湿地帯になっていた。大坂城に入城を果たした幸村は、この城の弱点が平坦な陸地の続く南面にあることを見抜き、南惣構堀(空堀)の外側に出丸を構築した。世にいう「真田丸」(真田の出丸)がこれである。もっとも幸村に限らず、名将の見るところは同じだったようで、幸村と前後して大坂城に入城した後藤又兵衛(基次)も、同様に出丸構築の必要性を考えていたという。材木まで用意し、準備を進めていたのに、それを出し抜くように幸村が出丸を築いたので、又兵衛は猛然と幸村に抗議し、両者の関係は一時、相当険悪なものになったと伝えられる(『落穂集』)。この真田丸を舞台に激しい攻防戦がおこなわれたのは慶長19年12月4日のことで、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎らの軍勢が攻め寄せたが、幸村はこれらの大軍をものの見事に手玉にとり、散々な目に遭わせて完勝した。
大坂冬の陣を代表する激戦の舞台となったこの真田丸はいったいどこにあったのであろうか。大阪市天王寺区玉造本町の三光神社境内には、幸村が大坂城内との行き来に使ったという「真田の抜け穴」が残り、その脇には鹿角の兜を被って采配を振るう幸村の銅像が立つ。丘陵の西端には幸村と大助親子の菩提を弔うために建立されたと伝えられる心眼寺があり、三光神社の隣には、西南戦争以来の陸軍戦没者の霊を祀る真田山陸軍墓地もあるので、一般には三光神社の鎮座するこの丘陵が「真田山」で、真田丸の故地だと思われている。一方で、三光神社の付近一帯が「宰相山公園」となっているように、この丘陵は「宰相山」とも呼ばれる。
「宰相山」という名称については、寛政10年(1798)刊の『摂津名所図会』に「加賀宰相侯の陣屋この辺(ほとり)にありしよりかくいふなり」とあり、安政2年(1855)刊の『浪華の賑ひ』は「京極宰相侯の陣営、この辺に有りしより、かく号(なづ)くるなるべし」と記す。「加賀宰相」は前田利常、「京極宰相」は京極忠高であるから、いずれにせよ、冬の陣に参戦した徳川方大名の陣所跡に由来するらしい。大坂の陣から80年ほど経過した元禄年間(1688~1704)に作製された大坂三郷町絵図は、江戸時代には大坂の基本図として、北・南・天満各組の惣会所などに保管されたが、それらの内の一本である大阪城天守閣所蔵本には心眼寺と坂道(心眼寺坂)を隔てた西側の丘陵に「真田出丸跡」と記され、慶應義塾図書館所蔵本では、同じ丘陵に「真田山」、心眼寺や三光神社がある丘陵には「宰相山」と、両者を明確に書き分けている。したがって、今は丘陵が削られて跡形もないが、幸村が築いた真田丸は、現在の明星学園敷地にあったことは疑いない。先の『浪華の賑ひ』では「宰相山稲荷祠」の項に、「俗に真田山といふ」とあるので、「宰相山」と「真田山」の混同は既に江戸時代に始まっていたが、現在は、宰相山のさらに南側に位置する別の丘陵に「真田山公園」があり、地名もここが「真田山町」である。「真田山」の地名は、本来の真田山を離れ、宰相山を経て、また別の場所に移ったのである。(大阪城天守閣研究主幹 北川央)」
フィールドワークをして、ネットで調べて、また、フィールドワークをしていくと、少しずつ大阪の地理や歴史に詳しくなっていきます。今回は、大阪低山をめぐる目的で、聖天山、茶臼山、御勝山、真田山(宰相山)を歩きました。帰ってからネットを使って調べることで、見てきた風景に合わせて、いろいろ深く学ぶことができました。