「室生寺奥の院」に行く  2019年10月5日(土)

 

 室生寺には、これまで何度か行ったことがあるのですが、いつも夕方に慌ただしく立ち寄っていたので、奥の院まで行ったことがありませんでした。朝から、室生寺へ行くためだけの目的を持って、車で出かけました。まだ、紅葉には時期が早いので、観光客も多くありませんでした。

 

 受付をしてすぐに、仁王門があります。仁王門を過ぎると、「ばん字池」があり、そこには、たくさんのイモリがいました。溶結凝灰岩の自然石が積み上げられた階段「鎧坂」を上ると、金堂がしだいに見えてきます。今回は、金堂(平安時代初期、国宝)、灌頂堂(鎌倉時代、国宝)、弥勒堂(鎌倉時代、重文)、五重塔(平安時代初期、国宝)とお参りをしながら、ゆっくり見ていくことができました。五重塔の先には、奥の院へ続く石段がありました。ここから先は初めてです。石段周辺は、大木の杉林になっていて、暖地性シダ植物が自生する最北端の地として、天然記念物指定がされているようです。長い石段の上には、清水寺の舞台のような木組みが見えます。崖に突き出して建てられた位牌堂でした。位牌堂は、周囲を歩くことができ、東大寺の二月堂のように、遠くまで景色を見通すことができる展望所になっていました。奥の院には、弘法大師の御影堂(鎌倉時代、重文)があります。

 

 お寺の歴史、仏像については、ネットで調べてみました。

「室生寺(むろうじ)は、奈良県宇陀市にある真言宗室生寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来。山号を宀一山(べんいちさん)と号する。奈良盆地の東方、三重県境に近い室生の地にある山岳寺院である。宇陀川の支流室生川の北岸にある室生山の山麓から中腹に堂塔が散在する。平安時代前期の建築や仏像を伝え、境内はシャクナゲの名所としても知られる。女人禁制だった高野山に対し、女性の参詣が許されていたことから「女人高野」の別名がある。なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという。仏塔古寺十八尊第18番札所。奈良時代末期の宝亀年間(770 - 781年)、興福寺の僧・賢璟(けんきょう/けんけい、714 - 793年)によって開かれた。その後、平安時代を通じて室生寺は興福寺別院としての性格が強く、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場としての性格ももっていた。中世以降の室生寺は密教色を強めるものの、なお興福寺の末寺であった。興福寺の傘下を離れ、真言宗寺院となるのは江戸時代のことである。真言宗の拠点である高野山がかつては女人禁制であったことから、室生寺には「女人高野」の別名があるが、この別名も江戸時代以降のものである。

室生山の山麓から中腹にかけてが境内となっている、典型的な山岳寺院である。室生川に架かる朱塗りの太鼓橋を渡ると、正面が本坊で、右方にしばらく行くと仁王門(近代の再建)がある。仁王門を過ぎ、最初の急な石段(鎧坂という)を上がると、正面に金堂(平安時代、国宝)、左に弥勒堂(鎌倉時代、重文)がある。さらに石段を上ると如意輪観音を本尊とする本堂(灌頂堂)(鎌倉時代、国宝)があり、その左後方の石段上に五重塔(平安時代初期、国宝)がある。五重塔脇からさらに400段近い石段を上ると、空海を祀る奥の院御影堂(みえどう、室町時代前期、重文)に達する。五重塔の先の橋を渡った左側の岩尾根上には、修行用行場の登山道も認められるが、一般参拝者は立入禁止。

<金堂>

屋根は寄棟造、杮葺き。正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。礼堂部分は寛文12年(1672年)に全面的に建て替えられている。堂内須弥壇上には向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重文)、本尊釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重文)、地蔵菩薩立像(重文)の5体が横一列に並び、これらの像の手前には十二神将立像(重文)が立つ。

<弥勒堂>

入母屋造、杮葺き。桁行3間、梁間3間。鎌倉時代前期の建築だが、江戸時代に大幅に改造されている。堂内中央の厨子に本尊弥勒菩薩立像(重文)を安置し、向かって右に釈迦如来坐像(国宝)を客仏として安置する。左の奥には文化財には未指定だが、神変大菩薩(役小角)像が安置されており、山岳信仰の影響が認められる。

<本堂(灌頂堂)>

入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。室生寺の密教化が進んでいた鎌倉時代後期、延慶元年(1308年)の建立。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(重文)を安置し、その手前左右の壁には両界曼荼羅(金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅)を向かい合わせに掛け、灌頂堂としての形式を保持している。

<五重塔>

800年頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。

<奥の院>

「五重塔」の後ろに、さらに山上へと続く道がある。「奥の院」へと続く参道だ。杉木立の、昼でも薄暗い急坂を進むと「無明橋」が架かっている。この辺りまでの山際は、暖地性シダ植物が自生する最北端の地として、天然記念物指定がされている。橋から先、370段余りの石段を登るとやっと「奥の院」に辿り着く。奥の院の「御影堂」は、鎌倉時代の建物。厚板による段葺の屋根で、その頂上には石造の露盤がある。内陣には弘法大師四十二歳像という木像が安置されている。この「御影堂」は真言宗寺院に多い大師堂とは異なり、高野山御影堂の形式を伝える唯一の建物とのことだ。「御影堂」の傍らには、諸仏出現岩といわれる岩場があり、その頂上には七重石塔が建つ。」

 

 室生寺周辺から赤目四十八滝にかけては、溶結凝灰岩という岩石が広く分布しています。かつて大学生の時、研究室の一年上の人が、この地域の溶結凝灰岩の分布を調べていて、何度か一緒に、調査に出かけたことがありました。溶結凝灰岩は、火砕流の堆積物です。かつて、この溶結凝灰岩の火砕流を噴出した火口が、どこかにあったはずです。もしかしたら曽爾高原、または高見山、さらに南の紀州山地の中なのか、まだその火口の位置は、はっきり決定されていません。