千国(ちくに)街道を少し歩く 2019年7月30日(火)
栂池自然園に行くために、栂池スキー場近くのホテルに泊まりました。そのホテルのすぐ横を、千国街道が通っていました。ホテルの受付の人が、千国街道(塩の道)のウォーキングマップ「塩の道を歩く」をくれました。白馬の一日目は八方尾根自然研究路を歩き、二日目は栂池自然園を歩き、三日目は堺へ帰るだけなので、三日目の朝食前に、1時間ほど、ホテルの横から続く千国街道を歩いてみることにしました。
まず、パンフレットを見て、調べ学習をしました。塩の道は、糸魚川から小谷村を通り、白馬、大町、松本へと続く120㎞ほどの道です。江戸時代の松本藩は、他からの塩の移入を禁止し、「北塩」という糸魚川からの千国街道経由のみを許可しました。日本海からは塩をはじめ海産物が、信州からは麻やたばこなどが運ばれました。それらを積んだ多くの牛馬やボッカと呼ばれる人たちが千国街道を行き来しました。この道が、塩の道と呼ばれ、明治時代まで続いて使われていました。糸魚川へと流れる姫川は、暴れ川と異名がある川なので、千国街道は、川沿いをさけて山腹を細々と通る道になっています。道幅は、背中に二俵の荷をつけた牛馬同士が安全にすれ違えるのが基準で、9尺(2.7m)でした。常に道は整備されて、牛と牛方、ボッカ達が日々行き交う街道でした。ボッカは、荷物を背負って運ぶ人たちのことで、塩1俵(47㎏)の荷物を背負って、十数人が一団となって雪の山坂を越えていました。牛を使って荷を運ぶ人を牛方と言い、牛は一頭に2俵の荷をつけます。一人前の牛方になると牛6頭を追いながら塩を運びます。牛による輸送は、八十八夜(5月2日)から小雪(11月23日)までで、雪のため牛が通れない半年は、ボッカが運ぶそうです。糸魚川から大町まで、5~6日かけて運びます。塩は、味噌、醤油づくりは勿論、魚介類の長期保存などにも欠かせない貴重なものなので一日も欠かすことができません。内陸部に棲む人たちにとっては、命をつなぐための貴重な街道です。なぜ牛を使っていたのかについては、平坦な道は馬がよいのですが、険しい山坂は、爪が二つに割れていて踏ん張りの強い牛の方が適しているのです。また、山中で狼におそわれても牛は闘争本能が強く、狼を近づけなかったということです。
栂池自然園から下ってきた夕方、ホテルの部屋にいるとき、村の放送で、「〇〇農協近くで、熊の親子を見かけたという情報がありました。みなさん気を付けてください。」と聞こえました。少し怖いなと思いながら、白馬三日目の朝6時30分から1時間ほど、栂池スキー場のホテルから牛方宿まで片道25分程、千国街道を歩きました。パンフレットに書かれているように、道幅が3mほどでずっと続いていました。牛方宿には、塩蔵、宿、牛をつなぐところなどが保存されていて、内部も見学ができるようです。朝の7時は、まだ、閉まってしました。案内板には次のように書かれていました。
「この沓掛の牛方宿(千国正幸家旧宅)は、江戸時代の千国街道沿いの輸送に携わった牛方やボッカが寝泊まりした建物である。間口6間、奥行10間の茅葺きの寄棟づくりで、建築年代は1700年代末から1800年代初頭と考えられ、何回かの改築が行われたが、大きな変化はなかった。元治元年(1864年)の家相図が残されており、これによると当初の間取りは座敷の入り口に畳敷きの玄関があること、土間がかなり広いこと等が特徴的で、母屋の西側に大きな牛小屋があり、往時の往来の多さを物語っている。街道に面した馬屋口から土間に入ると右手に中二階があり、牛方はもっぱらここに泊まり、下方の牛馬の様子を見ながら寝たと言われている。牛方宿としては、旧街道沿いに現存する唯一の建物である。」
ホテルでいただいたパンフレットには、次のような塩の道を歩くコースが紹介されています。今回歩いたのは、この中の千国越えコースの最初の2㎞ほどにあたります。
〇千国越えコース 栂池高原~南小谷駅 7㎞
〇石坂越えコース 南小谷駅~北小谷駅 12㎞
〇天神道越えコース 北小谷駅~平岩駅 9㎞
〇大網峠越えコース 平岩駅~塩の道資料館 10㎞ (~根知駅5㎞)
根知駅から糸魚川駅までは10㎞ほど車道を歩くことになる。
ホテルの方は、熊野古道を歩いた人は、次にこの塩の道を歩きに来られる方がいますよと、言われていました。とても見やすいパンフレットを頂くことが出来たので、ぜひ、歩きに行きたいと思いました。熊は怖いので、クマよけの大きな音の出る鈴か、ベルの準備が必要かなと思います。