天橋立の砂嘴を歩く 2019年5月24日(金)
前から念願の天橋立の砂嘴を歩くために、丹後半島まで行きました。40年も前に行ったことがあるのですが、その時は笠松公園の展望台から見ただけでした。今回は実際に歩いてみることにしました。
朝5時30分に家を出ると、阪神高速道路も中国自動車道も渋滞することなく西宮名塩SAに着くことができました。ここで少し休憩して珈琲タイムにしました。さらに舞鶴若狭自動車道を通り綾部から京都縦貫自動車道を使うと、天橋立には8時30分に到着しました。多くの駐車場がまだ閉まっている時間ですが、ちょうど開いていると駐車場があったのでそこに車を入れました。お店も、展望台に上るリフトもまだ営業をしていないので、まずは日本三文殊の一つ知恩寺にお参りしました。ちなみに、日本三文殊とは、京都府知恩寺、奈良県安倍文殊院、山形県大聖寺だそうです。
9時から営業を始める天橋立ビューランドのリフトに乗り、展望台から天橋立の全体を見ることにしました。朝早くに到着しているので、リフトには一番乗りでした。40年前に来た時は、天橋立の向こう側にある笠松公園の展望台から見たと思うのですが、今回は、ビューランドに登りました。天橋立駅周辺のホテルに泊まっていた人たちも動き始め、次々に登ってきました。ビューランドからの砂嘴の展望は、龍のたてがみの部分がよく見えて、とても立体感のある写真が撮れます。阿蘇海と宮津湾の間に、長く天橋立の砂嘴が伸びています。このように高い場所に登らないと、砂嘴の様子は分かりません。雪舟も山を少し登ったところから見て絵を描いたのでしょう。ビューランドは、小さな子ども達が遊べる遊園地になっています。花も植えられ綺麗に整備されているところです。
ビューランドから降りて、知恩寺の横にある船乗り場から観光船に乗って、阿蘇海を走行し丹海一の宮側の砂嘴の付け根の所へ渡りました。12分間の船旅です。船の窓から見た天橋立は、松林の向こう側に宮津湾が見えないので、ただ松が並んでいる海岸にしか見えません。船を降りて丹後一の宮元伊勢籠神社を見ました。他にも近くには西国三十三所観音巡礼28番所の成相寺、京都府立丹後資料館などがあるのですが、歩いて回るには少し遠いので、今回はすぐに天橋立の砂嘴歩きを始めました。また、笠松公園展望台には、今回は登りませんでした。
天橋立の中を通る道は日本の道100選に指定されています。長さ2.5㎞の細長い砂嘴の真ん中に道が通っています。道を中心に、宮津湾と阿蘇海の両方を脇に入れた写真を撮ろうと思ったのですが、それは出来ませんでした。松が多く育てられています。船越の松、双龍の松、見返り松、雪舟の尾松、夫婦松など、大きな松には名前が付けられています。また、松尾芭蕉句碑、与謝蕪村句碑、与謝野寛・晶子歌碑などがありました。
天橋立の砂嘴のでき方については次のような説明を見つけました。
▼2万年前の氷河時代、宮津湾が完全陸地化して後、約7~8千年前には氷河期が終わって海面上昇が落ち着くなか、縄文時代の後氷期(完新世、約6千年前)に急速に成長し、2~3千年前の地震により大量に流出した土砂により海上に姿をみせ有史時代に現在の姿にまで成長したとされています。砂嘴の幅は20メートルから最長170メートルに達し、中央には道が通っています。宮津湾の西側沿岸流により砂礫が海流によって運ばれ、天橋立西側の野田川の流れから成る阿蘇海の海流にぶつかることにより、海中にほぼ真っ直ぐに砂礫が堆積して形成されました。日本では、外洋に面さない湾内の砂州としては唯一のものであり、約8,000本の松林が生え、東側には白い砂浜が広がっています。
▼有井弘之は、「傘松付近を流れる真名井川などで発生した土石流によって供給された土砂が、阿蘇海方面へ運搬された可能性を指摘する。真名井川は、現在は阿蘇海へ注いでいるが、2004年度の調査によって元は宮津湾に流入していたと考えられている。ただし、真名井川などからの流入量だけでは天橋立を形成するには足りないため、さらに北方に大きな供給地が存在した可能性がある。丹後半島東部には兵庫県北部から京都府与謝郡伊根町にわたって延びる山田断層が存在し、宮津市北部から伊根町にかけては地滑り地形が集中している。その一つ、宮津市北部の世屋川流域では、中流域の松尾集落付近に川と隣接した地滑り地形が見られる。有井によると周囲の地形から、かつて宮津市北部を震源とする地震によって地滑りが発生し、これが世屋川をせき止め、やがて土石流となって宮津湾に流れ込んだとされる。阿蘇海周辺におけるボーリング調査の結果、2,200年前に阿蘇海の汽水化が進んだと判明した。地震・地滑り・土石流はこの頃に発生し、砂州が大きくなって宮津湾と阿蘇海を分離した。」と説明しています。“天橋立の形成過程について(京都府埋蔵文化財論集 第6集)
▼天橋立の宮津湾側の砂嘴海岸の砂がなくならないように、サンドバイパスという工事がされています。サンドバイパスとは、砂浜に沿って流れゆく砂を人工構造物などに移動をさえぎらせ堆積させたものを、人工構造物の下手側の海岸に人工的に移動させる一種の養浜工のことです。その結果、昭和50年頃の砂嘴と平成6年の頃の砂嘴を比べると、ずいぶん太くなってきています。
文殊寺側で阿蘇海と宮津湾とが細い水路でつながっていて、そこには廻旋橋がありました。観光船が通る時、橋が廻旋して船を通しています。かつては、人力で動かしていたとパンフレットには書いていました。雪舟が描いた500年前の天橋立はもう少し短く細かったようです。天橋立は、日本三景(松島、宮島、天橋立)の一つです。日本人は三大〇〇、〇〇100選とかが、とにかく好きなようです。
途中の橋立明神の横には磯清水の井戸がありました。砂嘴の真ん中に真水が湧く井戸があるとは不思議なことですが、海水を含んでいません。以前はつるべ式で井戸から釣瓶桶(つるべおけ)で汲み上げる形式でしたが、今はポンプ式になっています。この水は昭和60年(1985年)に環境省の「日本名水百選」に選ばれました。ただし、現在は飲料に適していないとされ、手水として利用するようにとの注意書きが出されています。松の大木がこれだけたくさん育つということは、両脇に海が迫っていても真水があるということです。天橋立のクロ松を育てているのは、砂州の地表下60~120cmに存在する地下水(宙水)で、磯清水もその地下水に由来すると説明されています。この地下水は、海水に挟まれた砂州内では真水の地下水がレンズ状に存在するという「ガイベン・ヘルツベルクのレンズ」だとされています。この「ガイベン・ヘルツベルクのレンズ」というのは、大洋中の島や海岸砂丘の地下においては,海水が地下に進入しているので,淡水は進入海水上にレンズ上に浮かんでいる状態をいいます。海水の比重を ρ,淡水の比重を ρ0 とすると,海水・淡水境界面の深さ H と、平均海水面から地下水面までの高さ h の間に(H/h)=ρ0/(ρ-ρ0)の関係があって、典型的な場合として ρ=1.024,ρ0=1.000とすると H=42h になるらしいです。井戸の水面から海水面までの距離hが分かると、海水・淡水境界面の深さ Hが分かるという関係式です。実際にはこのような静的な平衡系ではなくてもっと系は複雑になり,雨水の供給や漸移帯の発達などもあるので,動的な平衡が成立しているのだそうです。
念願の天橋立を歩いて渡り終えました。想像以上に幅があり、松の木がたくさんありましたが、歩くには丁度よい距離でした。砂浜に出たり、植物の写真を撮ったりしながら、海の中に伸びる道を歩くことができました。