学習原論(P35~43)を読む 2019年5月19日(日)
▼知的作用の根幹は無意又は有意の判断であるから、思考の発展は、結局は判断の発展である。判断作用が進歩すると直感も記憶も想像も推理も発展する。そればかりではなく情操も意志も発展してくる。判断を含まない情操も意志も無いからだ。独立して正しく判断することに努める工夫創作の能も養える。応用概括の力も養える。精を穿ち微を開き人生の本義までにも透徹させるに与って大なる力あるものは実に判断作用である。(P41)
▼判断作用しばらく発展して人生一切のこと判断作用で解決しようとすると、何時かは行き詰る。寂しくなる。たより無くなる。煩悶が起こる。思慮及ばず、言語道断えて如何とすることが出来ないようになる。この時はあるいは物質的に堕落を極め、或いは飛瀑または噴火口に投じ或いは仕方が無いから只自己の信ずる所に邁進しようと努力する。この處に種々相が発現するが、超格の師匠と無関心の時間とが、何時の間にかこれを解決して、一大光明に接しめることがある。ここに於いて一歩進歩した理想的生活に這入れた訳である。之は判断作用が進歩した結果、判断作用が間に合わない場合に逢着して得られた境涯である。判断作用を進めて判断作用以外に得られた大なる進歩である。(P42)
▼我が現時の教育に於いて、知育偏重の弊が指摘されている。いかにも知育の偏重は悪いが、偏重と云うよりもむしろ知育の不徹底と云いたい。及ぼしては教育方法の不徹底と云いたい。情意教育を十分にしないで何とて知育の徹底があろう。人生を渾一的に取り扱わず、徒(いたず)らに分析的思想に囚われた教育をするから、知育偏重の弊を痛感せねばならないようになるのだ。我が国現時の状況に於いては、更に知育を進歩させる必要がある。知育偏重などと云って知育を軽視しようとするのは大なる誤りである。知識と云うよりも寧ろ智慧が足らないで経済に破れ道徳に失敗するものが非常に多い。余は再び云う、知育偏重ではなくて知育の方法が悪いのであると。(P43)
▼不当な注入教授、過度の開発的問答教授、興味説をはき違えた軟教育、法外な硬教育、間違った試験勉強、教師過重の受動的学風等、上げ来れば沢山あるが、いずれも判断作用の発展を妨害するものだ。判断作用を発展させるのには、判断をさせねばならぬように仕向けてある教育組織の中に生活し、適切な学習法によって確実豊富な思考材料を使用し、好んで思考するように努力すると宜しい。かくしては一時学習材料が減少して規定の教科書を終了することが出来ないようなことも起こらんとも限らないが、それを恐れるに及ばぬ。その内、学習力が進むと従来よりは高速度で進むようになる。(P43)
▼発見法と系統法とは、論理学上思考の二大方法である。二者相持つべきもので、偏すべきもので無いが、従来の教育は系統的方法に偏した。吾々は発見的方法を多く使用するが、系統的方法も決して閑却してはならないと考えている。(P44)
▼言語の発達は、思考の発達と密接な関係を持っている。元来事実実物は第一次的のもので、言語文字は第二次的のものだ。しかし、言語文字が不十分では精神生活も社会文化も決して高く発展するもので無い。言語文字は非常に便宜なもので必要なものだから、従来の教育に於いてはこの符号上の教育が過重されて種々の弊害が起きた。その言語文字も発動的に児童生徒が学習するものならば自らその第一次的の方に進転することもあろうに、教師と云う便利なものが付いていて教えるのだから、第二次的の文字文章が教育の主要部を占めるようになった。それ程文字文章が尊重されるのに不思議なことが二つある。一は、活きた言語の練習が一向に重んぜられないこと、二は、教科書以外のものを読ませることが殆ど忘れていることである。今日の如き生きた言語の必要な時代に於いて、また、印刷術と交通機関とが進歩して容易に図書を得られる、その書物を読めば教師について教えてもらうよりも遥かに確実で、遥かに多量の学習ができることがあるのに、何のことだろう。吾等は早くこの点に覚醒せねばならぬ。言語文字による学習を正当に且つ有効にすることは独り判断作用の発展に必要ばかりでなく、学習生活全般に非常に必要なことである。(P44)
大学の教育も、小学校の教育も、ここに示されているように、活きた言語による学生相互の学習がなされていなくて、さらに教科書以外の多くの本を読ませていないという、教師の狭い思考の中に閉じ込められた教育がなされてきています。「書物を読めば教師について教えてもらうよりもはるかに確実で、はるかに多量の学習ができることがあるのに、何のことだろう。吾等は早くこの点に覚醒せねばならなぬ。」と書かれているように、自分で本を読み、自分で学び、相互に学び合うことの大切さはここにあります。
また、判断をさせる教育が大切です。判断させること自体が、教育そのものであるということです。自分達で進める学習、子どもが行事や校外学習を主体的に進める活動など、これらは判断の連続であると言えます。
ちょっと理解ができないところは、「判断作用しばらく発展して人生一切のこと判断作用で解決しようとすると、何時かは行き詰る。寂しくなる。たより無くなる。煩悶が起こる。思慮及ばず、言語道断えて如何とすることが出来ないようになるが、只自己の信ずる所に邁進しようと努力する。この處に、超格の師匠と無関心の時間とが、何時の間にかこれを解決して、一大光明に接しめることがある。ここに於いて一歩進歩した理想的生活に這入れた訳である。」の文章です。この部分は少し宗教めいているのですが、行き詰った時「超格の師匠と無関心の時間」による解決があるということです。そうすると一大光明が見えてくるらしいのです。理解できないということはその境地にはいたっていないということなのでしょう。一歩進歩した理想的生活とは、どんな生活なのでしょうか。自己の信ずる所に邁進してみなければいけません。