学習原論(P16~34)を読む 2019年5月8日(水)
▼教師が児童生徒の本性に徹見し彼等の学習能力の鋭くて豊かであることを知ると、自律的学習の可能性を疑うて、彼等には確実な概念が無いとか、理想が無いとか云うて居ることは出来ない。その様なものは学習して行く間に漸次発展するのである。一旦茲(ここ)に気付くと最早気の毒で従来の教育法を実施する気にはなれぬ。強いて実施しても教育の能率を挙げて行くことは出来ない。教育の趣味も解し難い。また、今日多く行われている教育上の諸主義諸方法も、児童生徒の側から眺めていくと比較的に調和統一も仕易い。学徒者の学習を観察すると、此等の調和が自然に行われて居ることが多い。大人が到底改善出来ないとも児童には先入主となって居るものが無いから、彼等の学習によって比較的容易に改善出来ることもある。(P16)
▼人は社会的生物で社会を離れては人らしくなることは出来ない。社会を離れては神の生活も出来ないだろうから恐らくは獣的生活に堕落して行くのであろう。人の生の目的を遂げる為に文芸・道徳・科学・宗教・政治・経済等の一切の社会現象を発現させる。人は此等の社会文化を理解し自己内心の本能を統御し自然を支配し精神労働と共に筋肉労働を尊重し社会文化を創造し信仰的生活を為し充実した生活を遂げていく。之が人の理想的生活だ。理想的生活と云うても完全無欠な神的生活を指すのではない。只あらゆる条件を考へ自己の力の及ぶ限りに於いて理想を実現する所の生活である。従って此の理想的生活は努力奮闘の生活である。喜ぶにしても悲しむにしても仕事をするにしても真剣の生活である。(P27)
▼目的生活をするためには、自ら法則が必要になって来る。そこで自ら法則を発見して行く。他人から法則を聞いて利用することもあろう。されば学習に於いても先ず学習者が目的を捉えて進行を始めねばならぬ。目的遂行の為には方法が自ら必要になる。法則もそこに役立つ。吾々は決して法則を無視するもので無く、法則を軽視しようとするものでも無いが、法則生活を過重しないで目的生活を尊重するのが為に、自ら法則を利用せねばならぬ様にして行こうと云うのである。学習に於いて、先ず法則を与えて活動させようとするのは多くの場合に於いて不成績となる。之ではとても創作的の学習は出来ない。現時の教育は余りに法則生活を過重して居る。先ず法則を与えて活動させねば学習生活が無価値になると思うて居る様である。大なる誤りだ。今少し児童生徒の本性に徹見するが宜しい。(P31)
木下竹次の『学習原論』から、自分の気になるところを打ち込みながら読むと、木下先生が書いた文脈を通して、言いたいことが伝わってきます。学習原論を全部、早々に読み通すことが大切ではなく、立ち止まり、吟味しながら読むことが大切だと思いました。植物や昆虫の本も、同じかもしれません。たくさんの本を読んでいくことも大切ですが、どれだけ考えたか、じっくり筆者と共感や議論ができたかということの方が大切なのでしょう。
人が学ぶということと、子どもが学ぶということは同じことなので、子どもが自分で学びのスタイルを見つけながら、自己発展させていくような学習をさせてあげることが大切です。その子の能力を伸ばすことになります。自ら問題に向かい合い、学び方を発見させる、学びの法則を自分で身に付けさせることが、その子の能力を伸ばす一番の学習生活になります。また、社会的に学びを深めることも大切です。独自学習だけでなく、相互に学び合い高め合うことも重要です。普段の生活の中で、人は、どのように新しい知識や認識を身に付けて行っているのか、どのようにできることが増えていくのか、その学習法の研究を教師は研究しなければならないと思うのです。