百舌鳥八幡宮から鳳駅へ  2019年4月24日(水)

 

■中百舌鳥駅→西高野街道→百舌鳥八幡宮→国指定重要文化財高林家→御廟山古墳→いたすけ古墳

 →上野芝駅→万年橋(津久野駅近く)→(鳳大社)→鳳駅 (7.2㎞)

 

 昨年の4月は、熊野街道を大阪から紀の川まで、何回かに分けて歩いていました。また、熊野街道の次は、紀州街道も大阪からみさき公園まで歩いていました。快調に歩いていて、体調がとてもよい時期でした。しかし、5月の連休明けから、幼稚園に週2日行くようになり、大学の週2校の資料作りにも時間がかかるようになり、一気に歩く回数が減りました。さらに昨年の7、8月は、35度を超える猛暑続きで、ほぼ昼間に外を歩くことが危険になりました。

 今年は、幼稚園の勤務が6月からになり、また、大学の非常勤講師も全部お断りしているので、5月はあちこちへと歩けると思います。体調を整えてフィールドワークを進めたいと思います。

 昨日で、ついに家の改修工事から解放されました。これで少し長い距離のフィールドワークに出られるようになりました。まずは足慣らしのために、昨日は長居駅から難波へ、今日は中百舌鳥駅から鳳駅へと歩きました。膝を痛めないように、今は10㎞以内にしています。

 今日は、まず中百舌鳥駅の南から西高野街道を西へと歩き百舌鳥八幡宮でお参りしました。前回は、そこから御廟山古墳に行く道を間違えて、いたすけ古墳へと行ってしまったので、今回は堺市が整備している歴史の道に沿って、百舌鳥八幡宮→国指定重要文化財高林家→御廟山古墳→いたすけ古墳へと辿り、さらに履中天皇陵へと向かいました。一方、履中天皇陵はサクラ満開の時にすでに素晴らしい景色を見ていたので、今日は履中天皇陵へは立ち寄らないで、阪和線沿いに上野芝駅→津久野駅→鳳駅へと歩くことにしました。上野芝駅から津久野駅の間は、初めて歩く道でした。途中、百済川、石津川を渡り、鳳駅へと出ました。津久野駅近くには、「万年橋」という現在は川でないところに、アーチ状の欄干が残されている橋がありました。帰ってから調べると下記のような歴史があることが分かりました。また、津久野という地名についての解説もあったので、それも引用させてもらいました。万年橋の前で、小学生の男の子二人が喧嘩をしていたので、その真ん中を通りながら二人を分けました。そのため、写真を撮ることが出来ませんでした。まだ、先生気分が少しは残っているようです。

 

▼万年橋(津久野駅近く)

 昔は橋の下を旧石津川が流れていたが、どんな橋をかけても氾濫の度に橋が崩れていた。そこで、昭和7年に地元が協力し全国でも稀なアーチ型鉄筋コンクリート吊り橋を作り上げた。その後、昭和30年代の駅裏開発で蛇行する旧石津川の大改修が進み“川のない橋”になるが、歴史の証しとして橋を残すこととなった。

地名「踞尾」から「津久野」へ

 踞尾の地名の由来は諸説あるが、反正、仁徳、履中の3御陵の真南正面に位置し、朝に夕に踞い拝していたところから、踞い居るがやがて「踞尾」になったとも言われている。約140年前は堺県大鳥郡踞尾村、後に大阪府泉北郡踞尾村になるが、当時は大字踞尾(東、中、西、宮山)と字神野、字下田に分かれていた。この地名は、今なお地車曳行の6地区の組として残っている。その後の向ヶ丘団地施工に伴い、昭和35年に地元の念願であった阪和線新駅の開通となった。当初は「踞尾」という駅名を嘆願していたが、読み難いこと等から、「津久野」となった。そして、昭和39年の駅前区画整備事業で、町名だけでなく、出張所、小学校、幼稚園など公的施設においても、「踞尾」から「津久野」に名称変更された。