安易に褒めない教育 2019年2月11日(月)建国記念日
園児と落ち葉拾いをしていて、「きれいな落ち葉」について考えさせられることがありました。私たち大人は、秋になって、これまで緑色だった木々の葉が、赤や黄色に変色して、落ち葉として地面に落ちている様子はとてもきれいに見えます。赤や黄色の葉は、それが見慣れた緑色と違って、綺麗、貴重、めずらしいという気持ちを込めて、「きれいな葉っぱ」と言いながら拾い集めます。しかし、子ども達と一緒に落ち葉集めをしているとき、3歳の子ども達は、紅葉した葉と、茶色、緑、変な色に変色している葉を区別しないで、全部拾って手持ちの袋に入れていきます。最初、私はその行動の意味がよく分からなかったのですが、「きれいに紅葉している葉」が「きれいな葉」という認識が、実は、大人から教えられてそう思うようになっていくことに気付きました。3歳の孫と落ち葉を拾っている時も、「この葉はきれい?」と孫が聞きます。「赤い葉っぱだね。綺麗ね。」と言いながら、一緒に袋に入れていきます。幼い子ども達は、紅葉した葉を「きれい」として見ているのではないという発見をしました。
ヤモリを見ている3歳も、初めて見る子どもは、「これは何?」と言いながら興味を示しますが、親から「気持ち悪い」と言われながらヤモリに出合っている子どもは、「こわい」「気持ち悪い」と言います。「触ってごらん。この指先、かわいいね。」と言いながら持たせてあげると、「本当だ。かわいいね。」と、じっくり見てくれます。
気持ち悪い、怖い、毒、臭いというようなことは、身を守るために大人から子どもに伝えられていくと、これまでも思ってきたのですが、「きれい」という判断も、大人から伝えられていることが分かってきて、少しショックを受けています。親からの教育、学校の教育の在り方が問われます。
そのように考えると、他にも、かしこい行動、集中力、美味しいなどの、いろいろな価値判断も、その子の個性や性格という以前に、かなり周りの大人から伝えられているのではないかなと考えられます。初めて出合う時の意味付けの伝達が、個性、感性、嗜好を作るのかもしれません。食べ物なども、ジャングルで住んでいる人たちは、虫や幼虫を食べます。我々から見ると、考えられない物ですがそれがおいしいのです。セミの幼虫を食べる習慣のある外国人が日本に移り住んできて、これまで住んでいた日本の住人が、「公園のセミの幼虫を食べるために取らないでください。」と、張り紙を書いたということも聞きました。
教育は、難しいものです。画一的な価値観の共有だけを目指して育てられるものではなく、それぞれの育ちを大切にしながら、その子らしい成長をさせてあげるような学習場を作る必要もあります。「紅葉が美しい」というのは、価値の共有であって、それが日本の文化になっていることも確かです。個性を育てるのか、文化を伝えるのか、そこが、教育現場の問われるところです。
これまで、安易に「きれい、すごい、がんばったね」と、教師がつい言ってしまっている言葉が、幼い子どもには、価値の押し付け、文化の強要になってしまうことになります。そうではなくて、「これは、どこがいいと思うの。なぜ、これをしようと思ったの。」と聞き出してあげるような声掛けが、実は大事になってきます。安易に褒めないということです。せめて、「この点に関しては、すごいと思うのだけれど、あなたはどこがいいと思うの。」と、一つは褒めて、一つは聞き出すというような教師でなければいけないと思います。