自分で学ぶ 2019年1月19日(土)
この前、テレビで、日比谷高校の授業の様子を紹介していました。公立高校なのに、たくさん東大生を出していることで有名な高校です。数学の授業場面でした。黒板が教室の3面にあり、そこに学生が自分達で問題の解法を書き、説明していました。英語の学習の場面では、課題について英語でグループに分かれて討論をしていました。先生は交通整理の役だと言っていました。学生が自分達で授業をするという方法です。こぎつね小学校と同じやり方だなと、嬉しくなりました。自分で考えを述べて、みんなから質問をされたり、さらによい方法が提案されて悔しがったり、競い合いながら学ぶという学習方法です。
こぎつね小学校でも、私が関係した学級だけで、何人も東大に行っています。決して私が教えたということではなく、私は、小学校の時期の子どもの学習の邪魔をしなかったということなんだろうなと思っています。教育の方針は、「自分で学ぶ」ということでした。「先生から学ぼうと思ってはいけない」ということです。子どもは、自分で学んだことを先生に伝えて「すごいね」と言ってもらったり、クラスのみんなに発表して、「へえ、そうなんだ」と関心を示してもらったりして、成長するものだと思います。
幼稚園の園児も、花を持ってきたり、貝の標本を見せてくれたり、石の標本を作っていたり、日記を書いているのを見せてくれたり、本の紹介、虫の紹介、鳥の研究の紹介をしてくれます。この子ども達の中にも、東大をはじめいろいろな大学へ行って、研究職についてくれる子どもがいるんだろうなと思いながら、自ら行動する学びを懸命に支援しています。東大へ行くだけが幸せではないのですが、理系の研究者が、一人でも増えることを願っています。担任していた女の子も、各地の大学で理系の研究をしている人が何人もいます。5年生の頃、毎朝30分ほど一か月間、理科室で顕微鏡を自由に使わせてあげたことがあって、それが理系に進むきっかけになったと言ってくれた子どももいました。願い続けると、子どもは育つものです。登園時や自由活動時など、隙間の時間に、虫や花や鳥の研究をしている子どもは、「ちょっとへんなやつ」と言われてしまいがちですが、そのような子どもが将来、世界に通用する研究者になり、科学の発展を担います。私はそう信じています。少なくとも、自然に興味を持たない子どもは、将来科学者には殆どなりません。5歳のチコちゃんに、「ボーッと生きてんじゃないよ」と言われないような生き方が大切なのだと思います。
先生が、子どもにとってあまり必要でない取り組み、先生の見栄だけのための取り組みに懸命になり、それに時間をたくさん使わさないことが大切です。子どもの世界を広げる活動、また、自由度が広い学習場の設定なら良いのですが、子どもがしたくない活動を、何度も、長く、いやになるほどさせることは、教育的によくないことです。その子の育ちの時間のロスになります。また一方、強制はいけないと思い込み、自由活動ばかりの放任状態でも育たないのです。刺激のある環境を創るのは、大人のしごとです。大人は環境を創り、子どもが自分で必死に選択しながら育ち、表現していくことが大切です。場の設定の広さ、自由度が広い活動を準備して、子どもが自分で選択できる力を育ててあげたいものです。先生の都合で、どうしても子どもにしてもらわなければならないことも時々あります。その場合は、大人の都合を説明して、短くさっさとしてもらいます。
英才教育が大切なのではなく、今の年齢の時の、毎日の生活の時間を子どもがどう生きるか、何に使うかということが大切だと思います。こぎつね小学校の私の学級でも、基本的なドリルや漢字は自分のペースで進めてもらいましたが、実は、日々の日記と自由研究と朝の元気調べが、学びの中心でした。自分の生活の耕しと、その中での発見や成長は、全て日記に書いてもらい、毎日読んで返事を書きました。また、研究が進んだ時には、自由研究を発表する場が常に準備してありました。各教科の学習は、子どもの持ち込みから学習を始めるようにしていました。多くの子どもがいる学級なので、毎日、誰かがどこかで活躍してくれていました。