歩くことも考える時間   2018年12月30日(日)

 

 いよいよ年末になってきました。今年も、大学と幼稚園、充実した忙しい一年間でした。小学校の仕事を終えてから3年間、大学は5校に講義に行って、それぞれテキストを作りながら進めてきました。最初の頃は、大学なので何か理論的なことを教えなければいけないのか、また、こぎつね附小の経験を伝える事が大切なのかと考えました。しかしそうすると、どうしても教え込み教育となります。これまでの教育で大切にしてきたこととは違ってきます。やはり、学習は自分達で進めるという学習法を伝えることを中心にし、学生が自分達で探究を進めるような学習であることが重要だと思いました。教育系の学生達なので、子ども主体の教育を創る先生になってほしいと考えました。しかし、それはとても難しいことが分かってきました。小学校でも、子ども主体の学習にしていくには、1、2年生は直ぐでしたが、教え込み教育で育てられてきた3、4年生では1、2か月かかり、5、6年生では半年ぐらいかかることを、これまでの経験で分かっています。大学生に伝えるのは、本当に至難の業であることが感じられます。非常勤講師の1時間だけでは、なかなか伝えることが難しく、やればやるほど気力と体力が必要であることが分かってきて、もう終えてもいいかなと思うようになってきました。

 平成も終わることだし、新しい楽しみを見つけていきたいと考えています。哲学という大層なことでもないのですが、歩きながら、いろいろ考えてみるというのがよいかなと思っています。そして、あちこちに短いエッセイを投稿しながら、生活していくのも面白いかもしれません。新聞や旅の雑誌や文芸誌などの投稿欄に原稿を書いてみようかなと考えています。懸賞付きなら、さらに燃えます。まずは、歩くことです。大きな道は、左側と右側と、歩く側を違えるだけで、見え方が全く違います。広い通りの一本内側の道には、人々の本当の生活があります。町の中でも、うねうねしている道には歴史が感じられます。川沿いの道や山沿いの道には、自然との、闘いと共存の生活が見られます。

 少し前に、「書くことは考えること」であるということを自分なりに発見しました。なんとなく過ぎてしまう一日の中で、文章を書く時間はとても重要です。書いている時間は、考えています。最近、「歩くことも考える時間だ」と思うようになってきました。注意深くものごとを見て、少し考えて、前の記憶とつないでいく時間であるようです。これまでは、地図をしっかり見ながら歩いていたのですが、時には、方位磁石を持って、地図を見ないで歩いてみるのも面白いかなと思います。その方がよく景色を見て、周りの情報を得て、考えるからです。帰ってから、グーグルマップで歩いた道を確認するような歩き方もいいなあと思えてきました。分かれ道で直観的に判断して、情報を現地で読み取って歩くのは、いろいろ考えが深まりそうです。山では危険ですが、大阪の町中ではどう歩いても大きな道に出ると行先が示されていて、バスや電車にもすぐに出合います。怖がりなので、リュックに中には、iPadミニは入れておきますが・・。

 地図ばかりに頼っていると、地図がないと歩けなくなります。若い頃は車にはナビがなく、簡単な地図と道路標示だけを頼りに、日本中を走っていました。江戸時代やそれ以前の人々は、宿場などで情報を得て歩いていて、もっと昔の石器時代などは、山や川などを目印に歩いていたと思います。考えながら、直観を大切にして歩いてみようと思います。