見守り育てる学習  2018年12月22日(日)

 

 大学生の学習のふりかえりを読んでいると、教育は、少し悲しくて、過去の自分を語りながら学びを進めるノスタルジックなもので、いとおしいものであることを感じます。親元から離れて、一人の生活を始めている学生もいます。なぜ私は、今の教育を少し悲しく感じてしまうのでしょうか。学びとは、自分の至らないこと、知らないところを自覚して、それを埋めていくような活動なのだからでしょうか。

 先生になると、学びは、目の前の子ども達のためにという目的意識があります。子どもの可能性を生かすために、子どもの成長の邪魔をしないように、子どもにおくれないように学んでいるというモチベーションがありました。今の幼稚園での虫や花の観察でも、子どもの出合う虫や花を、子どもより少し前に見ておきたいというのが、フィールドワークの原動力となっています。たぶん、今大学で感じている悲しさというのは、大学生の学びに対する迷い、持てる力が発揮されていない状況に関係するのではないかなと思います。学生達の迷いが、悲しさを感じさせられるのかもしれません。一人ひとりは、懸命に生きているはずなのに、集団になると見栄を張って、今が良ければそれでいいというような刹那的に生きている姿を演じている場面もあります。人と関係性を持つのが得意でなく、孤立している学生もいます。さらに、1年間の学費が150万円、4年間で600万円と、生活科で学校調べをして初めて気づいた学生も多くいました。学費以外に入学金や協力金などもいろいろあって、さらに多額のお金をかけて学んでいます。すごい舞台の上に立っているのに、そこで孤立して戸惑っている姿が、少し悲しさとして見えているのかもしれません。

 小学校1年生は、毎日元気に学校に来て、朝の元気調べで自分の興味や発見を話し、一緒にお散歩に出かけて、発見を競い合って発表していくことが、学びの中心でした。国語も算数も、お散歩ではないのですが、一緒にその教材の中に入り込んで発見したことを発表するというような学習をしていました。そこには悲しさを感じることはなく、懸命に生きて行こうとする、その子たちの感性が輝いていました。ちょっと的外れなことをいう子どもも、みんなと楽しく笑い合いながら、学習を進めることができました。その的外れの発見の中に凄い発見があり、それを見落とさないで拾い出すのが教師の役割でした。「それ、すごいね。どうして見つけたの。」「そんなこと、考えるの。初めて知ったわ。」と、いろいろな誉め言葉を駆使して、さらに輝きを増すようにしていきます。大学生と、こんな学習ができないのか、ずっと悩んできた3年間でした。私が感動するような発見や考え方が、園児や小学生からは今でも感じるのですが、大学生からは、そのような輝きのある発見の場面があまりに少ないのが少し悲しくなります。大学生は、褒められていないということなのでしょうか。それとも、自ら発見する学びをこれまでしていないからなのでしょうか。

 大学生に、自ら発見をしながら、自己組織化していくような学習をさせてあげたいのです。そして、ふりかえりが、今以上に個人の輝きが散りばめられた言葉で表現されるようになってほしいと考えます。ネットで調べて知っている感を漂わせている生活ではなくて、また、友達とつながって仲間意識だけで安心しているだけでなく、自分の経験と生活をしっかり見つめながら、やるべきことに懸命に能力を発揮している学びをさせてあげたいなと思います。大人はずるくて、若ものを「消費してくれる対象」として見ています。食べ物、ファッション、化粧、音楽、持ち物、学びなど、その気にさせて、いかにお金を使わせるかばかりを考えています。年寄りが詐欺にあわないようにキャンペーンをしているのですが、若者も「流行」という大人がねつ造した詐欺にあわないように気をつけないといけません。