学習指導の発問について 2018年11月1日(木)

 

 少し前に話す機会があった大学院生の研究課題について、私も続けて考えています。三日目です。いい課題をもらったと思っています。

 ちなみに、今回の209号の文章を、ブログ「きつねTのこぎつねだより」に掲載すると、これまでの文章がちょうど1000編、掲載できることになります。学級だより、学年だより、理科だより、学校だより、学習研究誌の論文、晴歩雨読などを、これまでたくさん書いてきています。今回のこの晴歩雨読209号が、ついに記念すべき1000番目の文章になりました。「書くことは考えること」ということに、少し前に気が付きました。書いている時間は、考えている時間であるということです。晴歩雨読など、文章を書いている1~2時間は、しっかり自分の頭の中で、その時の状況やこれまでの知識を再構成している時間になります。書く時間を持たないと、ボオーっと毎日が過ぎてしまいます。これまで、子ども達と学びを進めている時に、いろいろ考えて、お便りや論文に書き残してきてよかったなと思います。将来、次の2000編目を書いているのは、すべての仕事からの退職後になりますが、2000編に向けて、これからも考えを書き続けたいと思います。毎日書けば3年で2000編目になります。昨日、NHKのテレビ番組「ためしてガッテン」が1000回目といって、少しお祝いをしていました。私は、11月1日に1000編目を書きました。

 

 では「発問」について、考えてみたいと思います。私はこれまで、子ども達と学習をしてきて、「おたずね」という取り組みをずっとしてきました。学習を進める時も、自由研究発表を聞く時も、奈良さんぽ(フィールドワーク)に行く時も、かならず「おたずね」をしっかり持つように子どもに伝えてきました。子ども達が持つ「おたずね」(学びの視点)は、その子の学びの深さ、視点の違い、個性の違いから、多様な「おたずね」があります。この多様性は、子どもの学びは、個性からの追究であるということを示しています。

 学習を始める前には、「学習のめあて」を持つようにしています。これも、「おたずね」の一種だと考えています。自分が知りたいこと、学びたいことを、学習のはじめにそれぞれが意識化する活動です。適切な「めあて」を子どもが持つためには、「学習のテーマ」が必要です。「学習のテーマ」と「学習のめあて」は、私は使い分けていて、「学習のテーマ」は、かなり広く構えた、これから取り扱う範囲であり、混沌とした場所を示します。これは、教師の技量や能力によって、また、扱うテーマによって広さが違ってきます。拡散して混乱してしまう場合は、テーマは狭い方がいいでしょう。体験豊かな先生の場合は、広くておおらかなテーマでも、子ども達はそれぞれに個人の「学習のめあて」を持って、自由に学びを進めることができます。子ども達は、「学習のめあて」を言ってから、学習に入っていきます。それぞれ独自学習を語りながら、おたずねをし合って、学習を深めていきます。奈良さんぽ(フィールドワーク)の場合は、先生はそこへ連れて行くだけで、子どもは自分の視点で観察をしたり、おたずねをしたりします。

 こうなると、学習も奈良さんぽも、教師からの発問が、必要でないことが分かります。では、教師は何をするのかというと、時々、「立ち止まろうか」、「もうこれでいいの」、「もうすこし考えたら」という、指示をする仕事があります。子どもはいつも気が走っているので、どんどん進んでしまいます。軽く浅く流していく傾向もあります。奈良さんぽの場合でも、「ちょっとここで止まって、もう少し観察をしてみましょう。」、「これまでの観察のまとめをしてみましょう」というような指示をします。立ち止まることは大切です。メモを書いたり、おたずねを整理したりできます。

 国語の場合は、作者におたずね、登場人物におたずねをするつもりで、読み深めができます。社会科の場合は、社会のいろいろな人におたずね、仕組みを作っている人におたずね、歴史上の人におたずねをするつもりで学習を深めます。理科は、例えば植物におたずね、太陽や月や岩石におたずねをします。ヒマワリやホウセンカが、言葉で答えてはくれませんが、そこに追究の課題が生まれます。話し合い、追究していく視点が見えてきます。

 学習とは、こういうものです。先生が発問をすることではなくて、子どもの発問する力(おたずね力)を育てるのが学習だということです。先生が学習のスタートを決めてはいけないのです。学習者の個性的な追究の感性を伸ばす場を、奪ってはいけないということになります。