問題行動のある子どもの指導 2018年10月31日(水)
昨日の続きです。大学院生の二人目の研究課題「問題行動のある子どもの指導」について、私も考えてみることにします。
問題行動のある子どもは、いろいろな個性や家庭環境が背景にあります。それぞれの個性や状況に合わせた対応が必要です。集団行動が苦手で、みんなと一緒に学習ができない子どもがいます。また、能力が高すぎで一緒に活動するのがばからしいと思っている子どももいます。こだわりが強くて、そのこだわりが解決しなければ次に何も進められない子どももいます。問題行動の指導というよりも、おそらく、その子のこだわりある行動を理解することが指導なのだと思います。幼稚園で園児と話をしていると、この人は敵か味方かを、常に子どもは観察しているなと思います。味方だとわかると、心を許し聞く耳を持つというようになります。
例えば、私はよく街歩きをしています。10㎞ほどを隔日ぐらいで歩きます。おかげで大阪平野は、海辺から山際まで、かなりあちこち歩きました。街道にも詳しくなりました。なんのために歩いているのかと聞かれると、理由が一つではないので、グッと言葉に詰まる時があります。マラソンをしている人は、体力をつけるため、マラソン大会に出るため、健康増進のためという理由がよく分かります。しかし、趣味で、街歩きをしていると言うと、「街歩きをして、何かおもしろいですか?」と聞いた後、「そんなことをして、しんどいだけで、何かいいことありますか?」と、なにか非難されているような聞き方をされているのではと感じるときもあります。たぶん本当に街歩きのよさが分からないから聞いてくれているのですが、「ちょっと変な人」というようなレッテルを貼っているなと感じられるときもあります。そんなときは、説明するのも邪魔くさくなって、黙ってしまいます。
幼稚園で、こだわりのある行動をしている園児をよく見ます。電車ごっこをひたすらしている子どもがいます。また、大きな積み木を取り込んで、自分の世界を毎日創っている子どももいます。虫取りばかりをしている子ども、砂遊びが大好きで一人でもずっと続けている子どももいます。それらの子どもは、運動会のゲーム運動やお遊戯などの集団の練習が嫌いで、飛び出してきます。先生の、決めつけ的な指導の声がきらいなのです。集団で活動していても、心はそこにありません。先生からみると変な子、集団行動ができない子なのですが、本人は、自分の時間がなくなる、こんなことやっていられないというような気持ちなのでしょう。問題行動というよりも、自分のしたいこと、こだわりのある生活ができないことへのいら立ちが、そこにあるのだと思います。問題行動は、子どもの怒りであり、悲しさでもあるのです。
先生にとっては問題行動の子どもと言われますが、子どもにとっては先生の指導が問題指導であるのかもしれません。学級崩壊をする学級は、完全に先生の指導が問題指導の場合です。子ども達の心に届く対応ができていない場合です。先生は敵であり、子ども達は心を閉じてしまっているのです。このような状況は、程度の差がありますが、いろいろな教室で見られます。心を閉じている子どもが比較的少ない場合、心を閉じている子どもが「問題行動のある子ども」と言われます。心を閉じている子どもが多いと、「学級崩壊」と言われます。家庭で満たされない生活をしていて、さらに教室でも満たされない生活をしている子どもは、かわいそうです。
小学校の子ども達の担任をしていると、その学年の上下2~3学年ぐらいの差があるように思います。少し発達の遅れている子どもは、発達障害のある子どもかなと言われることもあります。4年生では、小学校2年生から6年生ぐらいの子ども達が混ざっている状況で、学習を進めている感じでした。それが当たり前の社会の様子だと思います。しかし、その差は、例えば、学習力、体力、調和力、記憶力、運動能力、言葉の獲得など、一つ一つ見ていくと、人によって全く状況が違います。中学、高校と年齢が上がると、さらに幅が広がっていきます。
自由な学校、自由活動の多い指導では、子ども達はそれぞれ自分の過ごし方で、自分の個性で、学習を進めることができます。できるだけ、個人の特性が生かせる学習環境を創ることが大切なのでしょう。先生は、子どもの趣味や特性や個性を、批判的に見ないことが大切です。その子の思いやこだわりを大切にしてあげたいものです。ちょっと変が、その子の能力であり個性であるからです。
晴歩雨読175号に、次のような文章を書いたことがあります。小学校で高学年の担任をしている時のおたよりの文章です。
「困った子ども」と言われている子どもが、実は私の宝物なのです。力を持て余していて、集団のさせられる活動が大嫌いな子ども達です。自分のしたいことがたくさんあって、それが自分のペースできなくなると、イライラしてくる子どもたちです。あまりよくない表現ですが、「勝手者」と言われてしまう子どもです。しかし、私の学級では、日記や理科やさんぽ教育(フィールドワーク)や劇などでは、そんな子たちが大活躍しました。もちろん学習でも面白い意見を出します。教師は、子どもの個性的成長を面白がることが大切な仕事です。「教育とは、個性や発想を育てること」が中心だからです。個性的な子どもの指導は、距離感が難しいのですが、「ちょっとへんと言われやすい勝手者」の子どもに尊敬される、「もっとへんな大人としての先生」が必要です。「ちょっと困った男子の束ね役が先生の仕事」です。それを見て、女子のしっかりした子どもたちは、先生を助けてくれます。「あんな男たちを束ねている先生」として、尊敬されます。