大学の学習とは 2018年10月29日(月)

 

 大学生の学習で、自由研究をしてもらっています。生活科のクラスには140人もいるので、いろいろな地域で、いろいろな育ちをしてきている学生ですが、多くの学生は、とりあえず楽しいという感想を持ってくれました。最初は、「なんで大学生にもなって自由研究なの」とか、「邪魔くさいなあ」というような思いで取り組み始めたものが、調べていくうちに楽しくなり、さらに、グループ発表をしている時には、多くの学びができた、という気持ちの変化を辿ってくれました。

 大学では、本当は自分で調べたことを論文にまとめて、それを発表し合いながら、次第に大学の先生たちが属している学会レベルの学び合いへと高まっていくことが、本来の大学生としての学習方法だと思います。その、スタートの自由研究は、生活の中で感じている疑問を自分なりに調べて、人に伝えるというところから始めました。案外、自由研究発表は、大学生の学び方であるのではないかなと思いました。すぐに学会レベルの難しい論文の世界に入って行くのではなく、18歳の学生達の興味、関心、意欲からできる範囲の、身近な疑問の掘り起こしからスタートするのも悪くないなと思います。

 こぎつね女子大の生活科や、また、こぎつね教育大学の理科の講座では、身近なところに学生が調べてみたい課題はたくさんあり、学生が何を調べても、その講座の中で取り上げることができます。身近な疑問、ちょっと深く調べてみたいことが、自由研究のテーマになります。 

 自由研究では、自分で発表を作り上げるということを学びます。深い研究である必要はなく、本やインターネットで調べたり、身近な生活を記録したりするだけのものでよいと考えます。ちょっと調べて自分なりにまとめて人に知らせることで、独自学習の面白さ、知識の共有、学び合いの良さを感じてもらうことを目指します。学びは競争であることも感じ取ります。自分の力で知識をまとめて、発信する力をつける体験です。テーマや内容の質、表現の仕方、書き方は、発表交流の中で、その学生達がいいと思う方向性を、自分で感じ取って、修正していきます。書く用紙は与えますが、書式をそろえる必要はありません。テーマも調べ方も表現も、自由なのです。実は、自由ということは、個性、価値観、学力、能力、意欲、感性など、すべてがそこに現れます。これまでに培ってきたすべてが見て取れます。

 その年代の学生達の学びの視点で学び合い、質を高めていくことが大切です。自由研究の質を高める場の設定には、その授業者の経験と技量が必要です。学生達の自由研究の良さと価値を瞬時に受け止める能力です。これは、小学校の自由研究発表を1年生から6年間続けさせていく時と同じです。

 プロの研究者の方法を学んでいくのは、もう少し後で良いのかもしれません。1回生から、自分の関わっている講座の中で、いくつか自分なりに自由研究を重ねて交流し、それなりにその講座が目指すべき学問の世界を知っていくようにすることです。1回生、2回生、3回生と、追究のレベルを上げて行き、4回生では、自分なりの卒業論文を書いて卒業していくようにするのが、大学の学び方でしょう。自由研究といいながらも、その人の個性や、資料の集め方、表現の仕方が現れています。それをさらに深めたり、広げたりしていきながら、自分なりのデータを持つことの意義を感じ始めて、調査・実践・研究という世界に進める力をつけるようにしてあげたいなと思います。

 最初から、人の研究を紹介するだけでは研究ではないと言ってしまうと、多くの学生は何もできません。やる気もなくなります。まずは、知る、その世界の広がりが分かるための、自由研究からスタートです。自ら学ぶことが面白いという経験をたくさんすると、次第に自分のこだわり、自分のオリジナリティ、自分からの発信がしたくなるものです。それが、プロの研究者の世界の入り口です。大学生の1、2回生は、「そもそも研究とは」と、大上段に構えないで、これまで積み上げられてきた知識の学び合いでよいのだと思います。本当の研究は、大学院からなのでしょう。

 学生が、グループで自由研究の発表をしていると、時間をかけて調べた自分の研究を聞いてほしい、友達の研究も知りたい、たくさんの研究が集まって一つの教科書ができそう、というような感想を持っていました。人数がとてもたくさんいるので、一回の研究でも学生達の身近な生活が、一気に学びの場になっていく体験をしているのです。

 次は、テーマを少し絞って、「生活科とは何をどのように学ぶ教科か」という、自由研究をします。表現の仕方は、一回目の自由研究で互いに見合って、分かりやすい、きれいな書き方について理解しました。調べ方は、本、雑誌、インターネット、自分の体験、自分で考える、という方法が考えられます。一回目の自由研究方法の調べ方をさらに発展させて、自分なりのこだわりの資料を引き出してくると思います。学びは競争(もしかしたら格闘技)であるということも、そろそろどこかに感じていると思います。ここに、学びの価値の転換があります。「教えられて、どれだけたくさん理解するか」から、「自ら学びを創造し、いかに自己主張していくか」という学び方です。教えられる学びから、自ら創造する学びへと、価値の転換が起こります。小さい頃から自ら学ぶ学習をしていると良いのですが、教え込まれてきている学生達には、大変なことです。滑らかに、次第に、「学びの創造」の価値の大切さに気付き、発展していくようにしていきたいものです。教えられる学びではなく、学びの創造をするために、大学にきていることを、自覚できるような教育を進めたいです。自らの学びの創造とは、主体的に個性的に生きていく力です。

 かつて、こぎつね小学校で高学年の学習をしている時、「祈るような教育」というおたよりを書いたことを覚えています。「きつねTのこぎつねだより」の自分のブログで、「祈る」という言葉で検索をかけると、すぐに見つかりました。

  「真の話し合いは、収斂していくのではなく、深く迷宮に入っていくものです。みんな一緒に、分かってしまうことは、こわいことです。どうしようもない、いらだちや、不満もあって人間の話し合いです。混沌とした話し合いになって、「世の中、分からないことが多いなあ」と言いながら終わっていく学習が、深い学習ではないでしょうか。

 最近、私は、教育は「信じて願う」から、「祈り」に近づいているように思います。その子を信じて、祈るような気持ちで、一つひとつの行動、活動、思考が動き出す瞬間、花開く様子を見守り、楽しみ、感謝します。私は、特定の宗教を持っていませんが、奈良の大仏様の寛大な心、見通す鋭い目、支える大きな手が必要であると思います。困難に対して、千手観音様のような、用意周到な準備も必要です。四天王のような、邪悪から守る厳しさも必要です。そろそろ、まほろばの奈良漬けになってきているようです。」

 学生の自由研究を、祈るような気持ちで、支えています。何をしているわけではないのですが、凄くパワーと気力が必要です。自分が教えるのではないので、学生自身がいい学習をしてほしい、育ってほしいと、祈っているというのが、私の大学の学習の進め方です。とても疲れます。