高校・大学生の参考書について 2018年10月2日(日)

 

 昨日192号の続きです。「子ども主体の学習」について考えます。

 学習場面、例えば国語の学習では、「分からない言葉はないですか。」「分からない文章はないですか。」という所から、子ども主体の学習を始めました。アクティブラーニングとか、ディベートとかというような方法論ではなくて、教科書の国語教材に対して、分からない言葉、分からない文章を、まず自分から発信することが学習のスタートでした。学習は、分かること、理解することが中心ではなくて、まず自分の分からないことを発信することから学習を始めることが大切です。分からない言葉を発信していく学習、そして、それらをみんなで調べていく学習をしていると、国語だけでなく、社会科の教科書内容でも、本当に分からない言葉だらけだということがよくわかりました。分からない言葉を発信することは、誰でもできることです。特に、学習が不得意というような子ども達がたくさん発信できて、活躍できる学習です。分からない子どもが、分からないと発信できることは、とっても大切なことです。その発言を聞いていると、「ああ、そんな言葉で躓いていたんだ。」「こんなにも分からないことが、たくさんあったんだ。」「子どもの生活の中では、聞いたこと使ったことがないんだな。」というような、分からない子どもの気持ちを共有できる学習の始め方です。算数の文章問題も、「何か分からないことはないですか。」から、学習を始めると、文章題の文章の言葉が分からない、何を聞かれているのか分からない、関係を読み取って絵や図に書けない、式が分からない、計算ができないなど、分からない子どもの気持ちも、分からない内容も分かってきます。「学習とは、『私は分からない』と、しっかりみんなにおたずねをしておくことが大切だよ。」「テストの頃になって分からないと感じてもそれでは手遅れなので、学習中に、分からないことをたくさん発信することが大切なんだよ。」と、常に言い続けます。

 分からないことが発信されてくると、次にそれらをみんなで学び合うようになってきます。3・4年生の頃の一番大切な学習の手立ては国語辞典です。分からない言葉を出し合って、調べていくことにより、子ども達の分からないことが関連しあって、構造化されてきて、次第に文章の主題へと迫っていきます。分からないこと調べが、文章の大切な部分、主題の理解へとつながっていくような学習展開へと高まっていくのです。分からないことを調べ合う過程、分かりあう課程を、みんなで辿っていくのが学習です。同じように、算数の文章題でも、分からない言葉を調べ合うことで、文章題が意味するところが見えてきます。

 小学校の5年生ぐらいになると国語辞典だけでは、調べきれないことが多くなります。理科や社会科の教科書の疑問点の発信は、国語辞典では調べられなくて、特に、地名や人名や生物名や物質名などは、もっと大きな辞書、例えば広辞苑などが必要になってきます。そこで、子ども達は、大きな国語辞典、人名事典、ことわざ慣用句事典、算数事典、科学事典や、参考書などを持ち込み始めます。それらで調べ合いながら、「私の辞書には〇〇と書いています。だからここでは、〇〇ということだと思います。」「私の参考書には、ちょっと違って、〇〇というようなことも書いてあります。」と、いうように学び合いを深めました。勢いが付いてくると、参考書や辞書を必死で使い、まるで学びの戦いのような様相を感じる時もありました。5年生が、ちょうど、いろいろな辞書、参考書の持ち込みが増えていった年頃でした。国語辞典も、子ども用から広辞苑など大きな辞書を使うようになりました。小学生用の国語辞典では間に合いません。理科では、「理科事典」という小学校高学年から中学生が使うとよいものがあります。このような、子ども達が懸命に相互学習をしていくとき、教師の机の上には、子ども達に負けないような、広辞苑レベルの大きな国語辞典を数種、日本・世界人名事典、慣用句事典、理化学事典、哲学辞典、歴史用語事典、歴史年表、現代用語辞典、植物や昆虫図鑑などをそろえないと、子どもの話し合いについていけなくなります。また、6年生にもなると、兄や姉の中学校、高校の教科書や参考書を持ち込む子どもも出てきます。調べることも面白いし、新しいことを知ることも楽しいというような、学習時間になっていきました。先生がちょっと自慢気に使っている辞書、事典、図鑑を休み時間に使う子どもも出てきます。

 私は小学校でしか学習を進めたことはないので、中学、高校では、どのような参考書を持ち込んで、教科書を中心に学びを進めればよいのが予想がつきません。小学校でも、多くの各種辞書、参考書を持ち込んで学習に臨むのですが、中学校、高等学校の学生たちには、どんな辞書、参考書があるのでしょうか。そこが、確立されていないと、子どもが自ら進める学習、子どもが学び合う学習ができないのです。分からないことを自分達で調べ合うことができない状況では、生徒や学生が進める学習はできません。

 これまで、小学校の子どもの机の上には、本当にいろいろな参考書を持ち込む中で学習が進められていました。「学びや知識を子どもが自ら発見する」というような学習の時間でした。基本的な参考書が必ず必要となします。しかし、もしかしたら、辞書、事典、参考書から、スマホやiPadやパソコンに変わっていくのかもしれません。新しい学び方へと発展してきているかもしれません。こうなると、さらに教師は本気で学ばないと、先生を続けることができなくなります。最先端で学び続けている先生は、子どもは尊敬しますが、学ばない先生は必要なくなります。それは将棋界では今、これまでの大量の棋譜がパソコンで見ることができ、パソコンを効率よく使える若者がどんどん力を付けてきています。さらに、パソコンが考え出す全く新しい棋譜の仕方も学びます。将棋界と同じようなことが、現在、学校の学びの現場でも行われつつあると思います。少し前は、情報原は辞書、事典、参考書でしたが、これからはITを、またAIをいかに上手に使いこなすことができる環境にあるかで、子どもの賢さは違ってくると考えます。

 これからの教師の研究テーマは、「情報機器を使いこなしながら、教科書を理解していく学習は、どうあればよいのか。」ということなのでしょう。教科書の重要性が、逆に出てきます。教科書が学びの中心であり、指針になっているということです。しかし、ITを使うと教科書をはるかに超えた情報がいくらでもあるのですが、まずは、教科書を中心に理解する、深めるということが大切です。将棋の世界も、ITを使って棋譜を覚えることが目的ではなくて、そこから何を学んで、どのように対戦に勝つかということが大切です。学習も、知識を覚えることが目的はなく、そこから何を学んで、新しいことをどのように発信できるかということが、学びの中心になってきているのかもしれません。

 人の脳は、かなりの容量を持っているようです。棋譜もこれまで本を読んで理解して、覚えていたと思うのですが、今は、動画で脳に入れていきます。子ども達の学びも、本を読んで行うということだけでなく、画像、動画で学ぶ時代になってきていて、さらに学習効率が上がってきているのかもしれません。先生方にとっては、とても大変な時代です。スマホで遊んでいたと思われる若者が、凄い知識を持ってくる時代になってきているのでしょう。

 しかし、現在のネットの情報は、不確かなものが多く、入力間違いも多くあります。コピペも、主観的な意見も横行しています。辞書、事典、参考書は、これからしばらくは必要がなくなることはないと思います。ネットの知識を取り込み、さらに中学、高校、大学で、学生に必要な辞書、事典、参考書を示し、それらを使いこなす学習場を提供できる先生が必要です。