紀州街道で大和川を渡る 2018年9月19日(水)
台風21号の影響で、大阪の街の各地で、家々の屋根瓦が飛ばされています。お寺や神社の屋根も大きな被害を受けています。大泉緑地もそうなのですが、大阪市内の公園の大木も折れたり、根っこから傾いたりして、悲惨な状況です。台風の被害を長く受けたことがなかったので、大惨事です。
夏の猛暑も過ぎて、最高気温も30度前後となりました。やっと午後からでも歩けるようになってきました。今年の2月から「さんぽノート」を作って、歩いた記録を書いているのですが、7月、8月は、殆ど記録がありません。35度を超える日々が続いたので、到底歩くことが出来ませんでした。
9月16日(さんぽノート093)と9月18日(さんぽノート094)に、住吉大社を目標に歩きました。16日は、家から三国ヶ丘まで竹内街道を歩き、三国ヶ丘からけやき通りを北へ進み、南海高野線の浅香山駅横の踏切を西へと渡りました。高須神社を過ぎたところで、紀州街道に出ました。ここに紀州街道が通っていることは、歩く前には知識がなかったので、とても嬉しくなりました。その紀州街道は、それほど道幅は広くなく、歩くための道です。車は通ることができるのですが、あまり通りません。今年の4、5月頃、羽衣あたりから紀州街道を探しながら南へと歩き、みさき公園まで歩きました。36㎞ほどを、何日もかけて歩いています。しかし堺市から北へは、まだ歩いていなかったので、ちょうど偶然出合ってよかったなと思いました。堺市から大阪市へ進むには、紀州街道は大和川を渡ります。大和川が、堺市と大阪市の間を流れるようになったのが江戸時代中期の付け替え工事以降なので、それ以前からあった紀州街道は、大和川が開削されるとき、断ち切られてしまいました。そこで幕府が、宝永元年に、この紀州街道の所にだけ橋を架けたという記録があります。大雨や台風の時、何度も流されそうになりながら、人々の生活を支えてきました。現在は、長さ192m、幅9.5mの立派な鉄骨の大和橋として整えられていて、街道の四角いマークがついた道が橋の上を通っています。あまり車は通りませんが、昔からの紀州街道の橋として、大切に維持されています。
紀州街道は、上町台地の上を通る熊野街道と違って海岸沿いをたどっていて、住吉大社を経由し、日本橋、難波を通り、上町台地の下を高麗橋へと続く道です。江戸時代に整備されて、参勤交代や商人たちでにぎわった街道です。海抜3mというような標記が、街道沿いで見られました。
住吉大社の近くでは、かつて「あられ松原」と呼ばれる、白砂青松の景勝地がありました。万葉集にもこの松原のことがうたわれています。「あられ打つ あられ松原住吉の 弟日おとめと 見れど飽かぬかも」と、天智天皇の第四皇子の長皇子が読んでいます。万葉集に詠まれるような古代からの景勝地だったようです。「あられ」とは、漢字では霰と書かれています。霰が降っていたのでしょうか。しかし、もしかしたら海岸が砂地ではなく、大阪層群の中の丸石のチャートが集まったところだったのかもしれません。淡路島の西側で、チャートで埋まっている海岸をみたことがあります。
16日は、家から住吉大社まで歩き、南海高野線の住吉東駅から電車で帰りました。家から9㎞ほどのフィールドワークでした。16日は、休日だったので、4人グループの街道歩きの人に、大和川の橋のあたりで追い抜かれました。モンベルスタイルの派手な服装で、さっさと歩いていきました。史跡などの説明板を読むこともないので、たぶん、このまま高麗橋まで一気に歩くのかなと思いました。
18日は、南海高野線の浅香山駅まで電車で行き、高須神社の横を通り、紀州街道を通って大和川を渡りました。今回は、住吉大社を通り過ぎて、さらに北へと歩きました。住吉大社から北の紀州街道は、しばらく阪堺線が道路上を通っています。歩道がなく歩きにくい道です。粉浜、東玉出を通り、南海高野線の高架を過ぎて、しばらく歩いた岸里東1の交差点で、紀州街道から右に曲がり、天王寺に出ることにしました。熊野街道が通る上町台地へは、大谷学園の近くの、かなり急で長い石段を上がりました。一気に10m以上も登ったと思います。万葉集の頃よりさらに昔の縄文時代、その石段のあたりが海岸線で、波が崖を削っていたのだなと思いました。18日は、浅香山駅から天王寺まで9㎞ほどのフィールドワークでした。モンベルスタイルのウォーカーたちのように、一気に長い距離を歩けていませんが、歴史の遺跡や地形を楽しみながら歩くことができました。