こぎつね生活⑦ 2018年9月9日(日)

 

 新しい理科の学習指導要領や、その改定の趣旨をまとめた本を買いに行きました。新しい学習指導要領の理科に、もう関わることはないかなと思っていましたが、フォーラムや、理科の新しい指導法などを書くような仕事もあと少しあるので、今一度、学びなおしをしておくようにしようと思いました。

 昨日は最高気温が27度でした。ホッとする気温になりました。ジュンク堂に行った後、大阪の街の中を歩きました。爽やかでした。やっと歩ける気温になってきました。あちこちで、耐風21号で木々が倒れていて、大阪の街は大変です。

 

 

学びについて

 

 みなさんのふりかえりを読んでいると、教職課程の学生が書いた文章になってきているように思います。まだ一回生なので、高校を卒業して間がないのですが、そろそろ本気で先生になるために学び始めたように感じます。そこで、次のような文章を書いてみました。まだ一回生の学生には厳しすぎますが、読んでみてください。真剣に学びに向かおうと心に決めている人も多くなっているので、心の深い所で受け止めてもらえるかなと思います。小学校の先生を終えてから、大学の講義を5校ほど経験してきていますが、その中で感じてきたことをまとめました。元小学校の現場の先生は、次のように思います。

 

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 どうも、大学も教え込み教育で、大学生を育てているようだ。バイト疲れの学生が居眠りをしながら聞くのにはちょうどよいのかもしれないが、大学で学ぶということの価値について、もっと真剣に考えてほしい。アクティブラーニングという、形だけの学習方法の提案だけではなくて、学ぶとはどういうことかというところからの、自ら学ぶ学習を立ち上げてほしい。学生は、これまでの小・中・高校でも教え込み教育で育ってきているので、「講義を聞く」というのは当たり前として受け取っているかもしれない。しかし、大学は、「知識を教える場ではない」ということから、出発してほしい。自ら本を読み、フィールドワークに出かけ、資料を持ち込み、議論をしあって学んでいく学習にすべきであると思う。大きな研究は必要でないが、小さなフィールドワークをし、小さな資料調べから、学習を立ち上げてほしいものだ。大学生は、学ぶことに忙しくて、寝ている暇も、バイトをしている暇もないというのが当然であるようにしたい。そのためには、大学の先生が責任を持って教育にかかわってほしい。私のような非常勤の先生にまかせているのは、とても無責任だと思う。

 自分で調べることが面倒な学生が多いと思うが、学問の面白さは、自分で追究することに意味がある。当然、大学教授が教え込むことからはレベルは落ちるけれど、学生の学びのレベルからの活動があって初めて、学びが始まるのである。これまで、学生たちは入試に向けての勉強が多かったけれど、大学では、自分が学びの主体になることから講義は始めるべきなのだろう。

 たとえば、文学にしても、15回の講義のうち、半分は、自分で本を読むところから始めるべきだと思う。本も読まないで、大学の先生の作家論や文芸論を聞いても、なんの意味もない。同じように、理科も社会科も、まずは、身の回りの情報、資料、本を集めるところから始める活動を、大学生の学びとしては当たり前としたい。自分で動き始めたことは、真剣に考えるものだ。初めての事なので、ほとんどの学生は、すごく低レベルからスタートをするが、それを大学のレベルに引き上げるのが、大学の先生の仕事だ。大学教授は、自分の学びの体系、学びを構築する体験を持っている人なので、その過程を大学生に踏ませるようにしていくべきだと思う。教職課程の場合は、子どもを育てる過程を、自分たちの体験を通して、真剣に考えさせることが、学びを創ることにつながる。

 最近の高校生、大学生は、多くの時間スマホを見続けているので、本を読む時間が無いのではないかと思う。電車に乗っている間、また、喫茶店、乗り物を待っている間というのは、かつては本を読んでいる学生がもう少し多かったように思う。高校生はほぼ全員、スマホを触っている。これは、今後の学力に大きな影響を与えるようになると思える。年間100冊、一週間に2、3冊本を読んでほしい。これから、日本の教育はどうなっていくのだろうか。一部のエリートと、多くのスマホ消費者を育てる社会的構造に組み込まれていくのだろうか。これから社会は、IT化がさらに進み、どんどん人がいらなくなる。工場の生産ライン、電車の改札や券売、銀行のお金の出し入れなど、多くの人が窓口となり働いていた所が、どんどん自動化されてきている。今後、たくさん人が並んでいるスーパーマーケットのレジ、タクシーの運転手、バスの運転手、トラックの運転手などが、次なるターゲットかもしれない。学校の教育も、これからおそらく半分はIT化されるように思う。教育のシステム化が進み、自分でいろいろな検定試験を受けて乗り越えていくようになるのだろう。探究の学習と、基本能力の習得(検定)が分けられるのだろう。英語と漢字と計算の習得は、今、そのようになってきている。

 私の研究教科である理科教育も、もっと学び方の見直しが必要であるかもしれない。中学や高校の理科は、高度なことをやりすぎていて、落ちこぼしを作るための学習になっている。結局だれも選択しなくなり、より科学教育の低下をきたしている。科学マニアの先生が作った中学、高校の理科教育を、根本的に見直さないと、日本の理科教育が駄目になる。科学がどんどん進化していて、それを取り込んでいくと、さらに難しくなっていく。最先端科学を取り込むことによって時代に遅れない教育をしているようで、一部の子どもにしか理解できない教育になってしまった。科学エッセイ、科学教育を分かりやすく紹介するライターが活躍し、素晴らしい文章を通して学べる教育機会を増やさなければならない。自分で自然について考え、自ら探究を進める子どもを育てないといけない。

 大学の講義をしていて、大学生は、園児や小学生よりも賢いのかもしれないが、学びの可能性は狭められているように思う。幼稚園児、小学生は、全ての社会や自然の現象に向けて、興味の窓が開かれていて、習得していこうとする力が備わっている。そうしなければ、自分が自然や社会の中で生き残れないので、自分が置かれた環境に適合できるように、全ての能力発展の可能性が開かれているのだろう。幼稚園児、小学生は、何をしても面白いし、周囲の状況に適合していく。しかし、大学生は、これまでに自分が望んでいない不本意な選別をされてきているので、すでに苦手意識がしっかり育てられてきている。通知簿を年間3回、小学校1年生から高校生まで12年間、「あなたはクラスで真ん中ですよ。あなたはクラスで最下位ですよ。」と、言い続けられてくると、自分がそれほど出来ないと思っていなくても、学校の中であなたは通知簿1です、△ですと諭されてきている。学校というのは、そんな非人道的なことをしてきている。テストをして、到達度を知らせる事は大切だが、相対評価でランキングする必要はない。このような不本意なランキングの中で、セレクトされ続けて学ぶ意欲をなくしている子ども達に、どのようにやる気を出してもらい、能力を引き出してあげるかについて、教職大学では考える必要がある。

 大学生にどんな力を付けるのか。特に、教職につく学生に付けてあげたい力とはどんなことなのだろうか。ここでも、学習指導要領を教え込んで、それをテストして、選別することが大学の仕事ではない。学生の能力を伸ばすこと、学ぶ意欲を高める事、真の学び方を身に付けさせて教職の現場に出てもらう事だと思う。テスト能力を高めるだけの講義では、そんな先生がまた再び、勉強嫌いな子どもを生産するだけになる。どんな学び方が楽しいか、深まるか、どのように自分で学ぶ学習の環境を作るのかを、深く考えさせることが大切である。

 学校とは、どんなことをする機関なのだろうか。物事を深く考える、自分の意見を持つことができる人になり、行動しながら学ぶことを身に付け、社会や自然に働きかける意欲を身に付けるさせるところである。特に大学は、知識を教えて選別する機関ではない。そのため、寝ている学生は、そのままではいけない。出席しない学生は、どうするのか。そのような学生は、先生になってもらっては困る。しかし、寝てはいられない講義、出席したくなる講義をどうするかを、大学として真剣に考える必要がある。教師になる力を付けてあげたいという一心で、教職課程を構成し、進めていくようにしたい。

 教室は子ども達の一生にかかわる基礎基本が育つ、緊張した現場である。いい加減な教師はいらない。

 

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<今日の学習> 

1.こぎつね生活を読む。

2.ビデオを見る。

3.生活科とは何をどのように学ぶ学習か? 

全体発表 

質疑

4.具体的な生活科の指導案を探して書いてくる。次回、グループ交流。

5.ふりかえりを書く。