書くことは考える時間 2018年8月29日(水)

 

 この晴歩雨読は、こまめに毎日、書き続けることができています。だれかに読んでもらうために書いているのではないのに、日々よく続いています。作家は、書いた文章を出版して、生活の糧のために書きますが、この毎日の晴歩雨読は、自分の生活を維持するために書いていると思います。たぶん自分自身、現在進行形がすべてで、過去をどんどん忘れていくように生きている性格なので、今のことを書いていかないと、昨日の事もすっかり忘れて、一週間、一か月間、何をしていたのか記憶からなくなってしまう怖さがあるからです。自分の現在地が分からなくなるからなのです。

 そう考えると、学級担任の時に書いていた、学級だよりや学年だよりは、先生として今、何をしているのか、子ども達はどのように学んでいるのかを文章にすることで、学級、学年の現在地を確認していたのかもしれません。大河の流れのような学校行事の連続の中で、自分達の乗った船の現在地やこれからの行先が分からなくならないように、また、深い森の中を歩いているような学習をしているとき、地図で現在地を確認するために、お便りを書き続けてきたと思います。地図に現在地のポイントを入れるために、みんなに了解してもらえる自分達の位置の確認が必要だったのだと思います。もし、学校という遊覧船に乗って川下りをして、森の中の整備された遊歩道を歩いているような学習なら、分かりやすいガイドブックがあって、遊覧地図があるので、お便りも必需品ではなかったのでしょう。自分で大河を下り、自分で森の中の道を開拓するとき、お便りは必需品でした。

 このような教育を40年近く続けてきました。そのスタートは、新任教師になったとき、教科書の教師用指導書を絶対に見ないで自分で授業を考えるということを思ったからです。教科書に沿って書かれた教師用指導書を見ると、最初に子どもに話すこと、見せるもの、準備、子どもに話させる内容、黒板の書き方、ノートの書かせ方、評価の項目まで、全て丁寧に書かれています。それを見てしまうと、子ども達と創り上げていく、その子達との学習ができなくなってしまいます。しかし、まったく何も見ないと、授業もできませんので、先進的に授業実践されている先生方が書かれた本を何冊も買い集め、また、教科ごとの月間雑誌(理科教室、理科の教育、国語教育、算数研究・・)なども読みながら、自分がしてみたいことを子どもと模索しながら教育を進めていました。この時のお便りは、とても大切な自分の足跡であり、子どもとの学習記録でもありました。

 今は、大河があるわけでもなく、森の中をさまよっているわけでもありません。川に流されることも、道に迷うこともありません。家を守っているだけで、なんとか生きていくことができます。しかし、日々の生活も、マスコミという暴風雨、時間という絶対的な大河に流されないで、自分の感覚で川を下り、身の回りにいくらでもある未知の森で、自分の足を使って歩き続けるようにしたいと思っています。その時の足跡が、この晴歩雨読になっていきます。まだ、仕事生活から自分生活の過渡期ですので、どっちもつかずの内容になっていますが、日々の足跡を記録して、現在地を見失わないようにしていきたいと思います。

 結局、文章を書くということは、考える時間を持つということなのでしょう。晴歩雨読を書くには、2時間ほどかかります。もし書かないと、集中して考えるという時間を持つことはありません。一日2時間、考える時間のために、晴歩雨読を書いています。かっこうよく考えると、哲学の時間ですね。

 

 

▼昨日は、お手紙、葉書を数人に書いた。まとめて一気に書くようなことをしないで、日々、少しずつ返事を書くようにするとよいのですが、それが、まだ、なかなかできない。晴歩雨読を書いているように、手紙にも、筆まめになりたい。

▼台風21号が、はるか遠くの海上から日本に向かってきている。

▼京都南部で、震度3の地震