河内街道 2018年2月3日(日)
今年の冬休み、昭和43年編集の5万分の1の大阪東南部の地形図を見ていると、八尾から北へと続く細い道を見つけました。曲がり具合、道の細さ、続き具合、道沿いのお寺や神社の有無から考えると、おそらく街道ではないかと考えられます。地図の中には、街道名が書かれていませんが、電車の駅と駅をつなぐ辺りから歩いてみることにしました。
2018年1月29日(月)1時30分、近鉄奈良線若江岩田からJR八尾に向けて歩き始めました。距離は5.8㎞。1時間半ほどなので、午後から歩くには適当な距離でした。
若江岩田駅は、最近路線が高架になり、駅もきれいに改築されています。新しく高架の駅になってから駅を使うのは初めです。ホームの階段を下りて改札を出ると、駅の北側にしか出ることができないので、少し西へ歩いてから、南へつながる道を見つけ、歩き始めました。駅が新たに改築されるとき位置が移動していると、目指す道でない可能性もあるのですが、昔ながらの商店街で、少しうねった細い道なので、おそらく前の駅前から続く道だと考え、南へと歩き始めることにしました。
若江岩田駅から南へ続く商店街にはお店がしばらく続き人通りも多く賑わっていますが、昔の街道を示すような建物、石碑、案内板は見当りません。お地蔵様もないので、街道かどうか、少し不安になります。しばらく南へ行くと二股に分かれる道があり、同じような太さなので一瞬迷いましたが、右の方が本道のようなので、そちらへ進むことにしました。商店街を抜けると、ずっと住宅地になっています。かなり進み、やっとお寺がありました。
▼蓮城寺
日蓮宗のお寺。『日蓮はいずれの宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず』『このお言葉は、日蓮大聖人の『妙密上人御消息』というお手紙の中で述べられています。そもそも大聖人は比叡山で十二年間ご修行されました。ご自身も途中まで「天台沙門日蓮」と名乗られ、52歳の時の『法華宗内証仏法血脈』では「法華宗比丘日蓮」と書かれています。そのすぐあと書かれた『観心本尊抄』では「本朝沙門日蓮」と述べられています。また身延山に入られて書かれた『撰時抄』では「釈子日蓮」とされています。つまり「日本の日蓮」「仏弟子日蓮」という意味です。ですから、宗教法人「日蓮宗」という名称は大聖人のお心持ちからやや遠い宗教法人名かといえるでしょう。』というような、お寺の紹介のページを見付けました。
▼若江鏡神社
平安時代の記録「延喜式」にのせられている古社の一つで、大雷大神・足仲彦命・息長足姫命の三神を 祀っています。「文徳実録」の斉衡元年(854年)4月条には「授河内国大雷火明命従五位下」と記されています。「本殿は、銅板葺三間社流造りだが、実際は、一間社流造りを二棟つないだもので、中の間は板壁で囲まれた相殿となり御神体は祀られていない。本殿は文政11年(1828年)に再建されたものと考えられる。なお、当社には、市指定文化財として、大般若経600巻もある。」と、説明されている神社でした。
▼十三街道道しるべ
鏡神社の鳥居前の道を南に行くと、三叉路の角に道しるべが二基あります。
▼第二寝屋川は享和3年(1803)造立の大阪市内の深江で暗越奈良街道から分岐して長堂・荒川・上小阪のいくつかの村をとおり生駒山の 十三峠(八尾市)を越えて、竜田・長谷寺へ通じる十三街道の道しるべです。十三街道は、「八尾市神立と平群郡を結ぶ道筋で、近世には大坂から伊勢参宮のルートとしても賑わった。大阪の玉造から八尾市内北部を通り、神立地区から山道を登り、水呑地蔵尊を経て十三峠に至り、大和へ通じている。この街道は、在原業平や伊能忠敬、また伴林光平も歩いたと言われている。在原業平は、平安時代の歌人で、六歌仙の一人としてその名を残す人物。容姿端麗で情熱的な和歌の名手で、男女の恋愛にまつわる言い伝えが各所で残っている。八尾市では、市内東部の高安地区に「業平の高安通い」として、はかない恋物語の言い伝えが残っており、業平が神立辻の茶屋「福屋」の娘(うめの)に会うために通った大和と河内をむすぶ十三峠の道」と、ネットで調べると書かれていました。生駒から信貴山まで尾根歩きをしたとき、十三峠の場所は分かっていますが、峠越えはできていません。
「大阪府八尾市福万寺町北6丁目の恩智川治水緑地付近で恩智川から直角に分かれ、東大阪市との市境を成しながら西流。東大阪市玉串元町で玉串川が南から合流する。中央環状線が迫る東大阪市若江南町で、南方からの楠根川を併せ北西流に転じる。ここからは東大阪市中西部を斜めに横断し、大阪市鶴見区のJR放出駅に至って再び西へ向きを変える。東大阪市・八尾市境の東西にまっすぐな流域 および 大阪市城東区内の長瀬川合流地点から平野川合流地点までは、寝屋川・恩智川の水害対策として1969年(昭和44年:竣工年)に開削された新しい流域である。楠根川の合流点以北、寝屋川合流地点までは、かつては楠根川と呼ばれていたが、開削・付け替え・拡張に伴い、第二寝屋川に編入され、旧河川域は埋め立てられた。」と説明があります。最近はネットで調べるとすぐに情報が得られるので、とても便利です。
▼加津良神社
「大徳山と号し真宗西本願寺末である。寺院の西南の地は字城土居と呼ばれ萱振城の跡と伝えられる。南北朝時代から室町時代にかけてこの付近一帯はたえず戦場となり荒廃したが、文明2年(1470)蓮如上人が河内布教のあとその子蓮淳を開基としてここに恵光寺を建立し、萱振地内町を形成した。南に念仏橋があり、帰依する者も多く河内若江二郡52カ寺の触頭をつとめ萱振御坊(柳の御坊)とも呼ばれる由緒深い寺院である。」▼恵光寺創建年代は不詳。天武天皇8年(679年)8月、鰻造忍勝が嘉禾(よきあは)を献ったという。『延喜式神名帳』にある「加津良神社(河内国・若江郡)」に比定される式内社(小社)。祭神は素盞鳴命(スサノヲ)であるが、現在は牛頭天王(ゴズテンノウ)と称している。疫病を治める神として祀られた。御祭神を加都良命とする説もある。播磨国多可郡に式内社「加都良乃命神社」があり、現在の加都良神社の御祭神は加都良乃命。関係があるかどうかは不明。祭事の時は氏子らが萱を束ねた松明を振って神を慰める。これによって村の名を萱振と言うようになったそうだ。【関係氏族】縵(かずら)連。縵連は百済系と物部系の2系統あるがいずれの系統か不詳。」と、調べることができました。津という言葉が入っているので、このあたりに、かつて港があったのかもしれないなと、昔の河内潟とのつながりを、思い浮かべました。しかし、氏の名前の縵(かずら)からの津なら港は関係ありません。
▼楠根川
「現在の流域はほぼ八尾市内に限定される。一級河川の起点は八尾市八尾木地区(八尾市役所曙川出張所の北東付近)となっている。地図上の流域はさらに続いているが、住宅地や田畑の中を流れる用水路のようになっており、曙川小学校の南付近で東西に別れ、さらにさかのぼると、玉串川(八尾市曙川東地区)や長瀬川(八尾市天王寺屋地区)の農業用水取水口から取り込まれており、水源は農業用水路の余り水と見なせる。八尾木地区から中田地区まではまっすぐ北上し、南小阪合町付近で少し西に向きを変える。近鉄大阪線のガード下を越えると川幅・深さが大きくなる。ここ以北は上記の治水工事で付け替え拡張された流域である。萱振町、楠根町内を通り、八尾市域を出てすぐ、東大阪市若江南町5丁目で第二寝屋川に合流する。」
▼大阪経済法科大学
「学部をもつ大学として設立された。大学の創立者金澤尚淑博士が、「経済と法律が社会の両輪であり、この二つの学問を修めることで無類の人格を形成することができる」という信念をもっておられたからです。それを実現するため、本学は「経法相互乗り入れ」によって、経済学と法学の両方の知識を身につけた、法律に強い経済学部生、経済に強い法学部生を育ててきた。 それと共に、本学は、世界25か国・地域に63大学・研究機関の姉妹校をもち、それらのネットワークを活用して、多数の学生を外国の姉妹校へ派遣し、また姉妹校からも受入れてきた。2016年度には、新たに国際学部を設置し、グローバル化する社会において、豊かな国際感覚と優れたコミュニケーション力を身につけ、国際的なビ ジネス・市民社会で活躍できる人材を育てている」、とホームページに書かれていた。2年間、ここで、大学生を教えていました。
▼北本町中央通商店街・八尾ファミリーロード
「八尾市で一番大きな商店街(八尾ファミリーロード)として約70店舗の個性ある店舗があり、近隣には歴史のある大信寺、八尾天満宮、常光寺など寺社仏閣が多数点在している河内情緒のある楽しい商店街」と、これもネットで調べることができました。
▼八尾地蔵尊常光寺(河内西国第3番)
「臨済宗南禅寺末で八尾の地蔵さんで名高い。行基の創建で聖武天皇の勅願所であった。南北朝の戦乱で焼失したが、又五郎大夫藤原盛継が再興した。足利義満が参詣し、造営の材料を寄進し額を書いた。大坂夏の陣には金地院崇伝の抱え寺として保護され、藤堂高虎はこの寺の縁側で敵の首実検をし、今でも血天井として残されている。寺宝も多く家光以降の歴代将軍の朱印状がある。8月23日、24日の地蔵盆は名高く、河内音頭による盆踊りは河内の名物である。」
▼八尾天満宮
「創建の年月に就いては文永年間とも、慶長年間とも二説が有って不詳であるが、旧八尾町大字八尾部落の開発は、慶長年間であるから河内名所図会所載の如く、八尾天満宮は慶長年間 片桐東市正且元の造営であること正史に副うものとの確証が強い。 享保年間の火災により、社殿悉く鳥有に帰したが村民直ちに協力して再興した。現社殿は安政五年の改築である。 八尾部落沿革誌に拠れば「社史・社宝は享保の火災で焼失のため旧縁不詳であるが、祭神二座の内、道真公神像は明和4年5月菅前大納言高辻殿当社に参拝寄進せられ、爾後御神忌の都度高辻家より寄附目録等有之」とある。境内は、1,142坪、社殿は本殿・幣殿・拝殿在り中門・手水舎・遥拝所の設け有りて、末社には、稲荷社・琴平社・三社(天照大神、春日大神、八幡大神)の外、八尾市産業の守護神として、崇敬篤き八尾戎神社があり、毎年正月7・8両日の八尾戎祭には盛況を呈する。 氏子範囲は本町1丁目より5丁目までと栄町・光南町・新家町に及び八尾市の中心部を占める。」
▼長瀬川微高地
「大和川の旧河道の位置に現在も流れているのが長瀬川であり、戦前までは川幅は河川敷を含め30m程あった(現在の川幅は5m程)。そのため戦前までは、流域の農家の多くが、天満の青物市場まで船で作物を出荷しており、記録および写真として残されている。そのため近年では、大和川は付け替えられたのではなく、分流させたのだとする説もある。高度成長期になると、新しい大和川へ多くの水を流すようになり、かつての大和川の諸流は埋め立てられ、長瀬川も農業用水路として、後には工業排水用の水路として細い流れを残すのみとなった。しかし、その工業排水によって汚染されることになり、八尾市・東大阪市・大阪府・旧建設省(現在の国土交通省)が中心となって水質改善を進めて今に至っている。ちなみに、現在の寝屋川は徳庵から西の今福まで直進し、そこから鴫野を通って緩やかに西に曲がりながら大川に注ぐ形になっているが、この直進部分は元々徳庵井路であり、元来の寝屋川は徳庵から稲田本町までJR片町線に沿うように南下して楠根川(現、第二寝屋川)に合流し、今度は南側から長瀬川が合流する放出から北西方の鴫野に至り、現行のルートに繋がるという流れであった。しかし、寝屋川、楠根川、長瀬川が合流するとどうしても水量が多く頻繁に洪水を起こしてしまうため、寝屋川は楠根川、長瀬川と分離されることとなり、徳庵から直進する徳庵井路を拡張してこれを新たな寝屋川とし、元々の徳庵から稲田本町までのルートは埋め立ててしまった。それによって切り離された楠根川と長瀬川であるが、従来通りに放出で合流して鴫野に向かっていき、そこで寝屋川と合流していた。しかし、1969年(昭和44年)に楠根川が第二寝屋川に生まれ変わった際、放出から鴫野のルートは埋め立てられ、新たに放出から西に直進して大阪城の東で平野川に合流するルートに変更され、そこから大阪城の北で寝屋川と合流する流れとなっている。次第に埋め立てられていった旧河道には新田が開発されたが、元々が川底であることから砂地であり稲作には不向きであった。このため砂地での栽培に適した桃の栽培、木綿の栽培や綿業が盛んになり、河内木綿と呼ばれるまでになった。また綿業の副産物として綿種油の生産も盛んになり、現在も長瀬川沿いには油脂関連の企業が立地している。なお旧河道の新田は既存の村々には編入されたが、明治維新以後には新たに移住するものがあり、新たな村が設置された。このため現在に至るまで長瀬川沿いには周囲とは異なる地名が付けられている場所が多い。また、現在の長瀬川沿いの地名の多くには旧来は名称の後ろに「新田」がついていたものが多い(例:江戸時代:吉松新田→現在:吉松)。加えて、新田開発した商人の名に由来する菱屋西のような名称もある(菱屋は江戸時代に栄えた大阪の商人。西というのは菱屋が開発した新田で菱江川などに開発した菱屋中新田や菱屋東新田があったため)。 明治以降は外国製の安価な木綿に押されて木綿栽培は衰退したが、天井川であったために周囲の土地よりも高く水はけが良い点を活かし、旧河道には鉄道が敷設された(大和路線八尾駅~柏原駅、近鉄大阪線長瀬駅~久宝寺口駅)。さらに同じ理由から宅地開発や学校の建設も行われた。」
▼JR八尾駅
家に帰ってから調べると、河内街道という、八尾から枚方へと続く道だと分かりました。歩いている時、河内街道という案内板がどこにもないのがもったいないと思いました。次は、若江岩田駅から北へ、住道駅まで歩く計画です。枚方まではかなり距離があるので、分けて歩くようにします。住道から北は、地図を見ても一本道でつながっていないので、街道を辿るのが難しそうです。
街道歩きの事を、以上のように歩いてからまとめてみましたが、ネットからの引用ばかりで、読んでいて面白いものではありません。詳しく調べる事自体は、自分の知識にはなるのですが、次回から、このようなまとめ方は、やめようと思いました。何かいい方法は、ないものでしょうか。