大学の授業 2017年11月4日(土)
どうも、大学も教え込み教育で、大学生を育てているようです。バイト疲れの学生が居眠りをしながら聞くのにはちょうどよいのかもしれませんが、大学で学ぶということの価値について、もっと真剣に考えてあげてほしいと感じます。アクティブラーニングという、形だけの学習方法の提案だけではなくて、学ぶとはどういうことかというところからの、自ら学ぶ学習を、大学でも真剣に立ち上げてほしいと思います。多くの学生は、これまでの小・中・高校でも教え込み教育で育ってきているので、講義を聞くというのは当たり前として受け取っているかもしれませんが、大学では、「『学ぶということ』は教えるものではない」というところから、出発してほしいものです。自ら本を読み、フィールドワークに出かけ、資料を持ち込み、議論をしあって学んでいく学習にすべきであると思います。学部生に大きな研究は必要ではないけれど、小さなフィールドワークをして、小さな資料調べから、学習を立ち上げてほしいものです。大学生は、学ぶことに忙しくて、寝ている暇も、バイトをしている暇もないというのが当然であるような学びにしていかなければいけません。そのためには、私のような非常勤の先生にまかせるのではなく、大学の正規の先生が責任を持って教育にかかわっていくべきです。
自分で調べることが面倒な学生が多いのですが、学問の面白さは、自分で調べて追究することに意味があります。当然、教え込みからは、一時的にレベルは落ちるかもしれませんが、学生の追究レベルからの行動があって初めて、学びが始まるのです。これまで、学生たちは入試に向けての勉強が多かったと思いますが、大学では、学生が学びの主体になるということからスタートはできないものでしょうか。
たとえば、文学にしても、15回の講義のうち、半分は、自分で本を読むところから始めるべきです。本も読まないで、大学の先生の作家論や文芸論を聞いていても、なんの意味もありません。同じように、理科も社会科も、まずは、身の回りの情報を集めるところから始める活動を、大学生の学びとしては当たり前としていきたいものです。自分で動き始めたことに関しては、真剣に考えます。初めての事ばかりなので、ほとんどの学生は、すごく低レベルからスタートをしますが、それを大学のレベルに引き上げるのが、大学の先生の仕事だと思います。大学の先生は、自分の学びの体系、学びを構築する体験を持った人なので、その過程を大学生に踏ませるようにすることができます。教職課程の場合は、子どもが育つ過程を経験することで、自分の一からの学びの体験を通して、学びを創る先生になることにつながります。
最近の高校生、大学生は、多くの時間スマホを見続けているので、本を読む時間が無いのではないかと考えます。電車に乗っている間、また、喫茶店、乗り物を待っている間というのは、かつては本を読んでいる人がもう少し多かったように思います。高校生はほぼ全員、スマホを触っています。これは、今後の学力に大きな影響を与えるようになります。これから、日本はどうなっていくのでしょう。一部のエリートと、多くのスマホ消費者を育てる社会的構造に組み込まれていくかもしれません。これから社会は、IT化がさらに進み、どんどん人がいらなくなります。工場の生産ライン、電車の改札や券売、銀行のお金の出し入れなど、多くの人が窓口となり働いていた所が、どんどん自動化されてきています。今後、たくさん人が並んでいるスーパーマーケットのレジ、タクシーの運転手、バスの運転手、トラックの運転手などが、次なるターゲットと言われています。学校の教育も、おそらく半分はIT化されるように思います。自学のシステムが進み、自分で検定試験を受けて乗り越えていくようになると、学び方が大きく変化すると思います。みんなで学ぶ探究の学習と、独自で習得する基本能力の学習とが分けられていくかもしれません。英語の習得が、今、そのようになってきています。
中学や高校の理科の学び方も、もっと学び方の見直しが必要であるかもしれません。高度なことを教えすぎていて、落ちこぼしを作るための学習になっています。結局だれも選択しなくなり、より科学教育の低下をきたしています。科学マニアの先生が作った中学、高校の理科教育を、根本的に見直さないと、日本の理科教育が駄目になるように感じます。科学がどんどん進化していて、それを難しいまま取り込んでいくと、さらに学習が難しくなっていきます。最先端を取り込むことによって時代に遅れない教育をしているようで、一部の子どもにしか理解できない教育になってしまいました。科学エッセイ、科学教育を分かりやすく紹介するライターが、素晴らしい文章を通して学べる教育機会を増やさなければならないと思います。
大学の講義をしていて、大学生は、園児や小学生よりも賢いのかもしれませんが、学びの可能性は狭められているように感じます。幼稚園児、小学生は、全ての社会や自然の現象に向けて、興味の窓が開かれていて、習得していこうとする力が備わっています。そうしなければ、自分が生き残れないので、自分が置かれた社会に適合できるように、全ての力の進展が図られるように脳の仕組みがなっているのでしょう。幼稚園児、小学生は、何をしても面白いし、その状況に適合していきます。しかし、大学生は、自分が望んでいない不本意な選別や序列化をされてきているので、苦手意識がしっかり育てられてきています。通知簿を年間3回、小学校1年生から高校生まで12年間、「あなたはクラスで真ん中ですよ。あなたはクラスで最下位ですよ。」と、言い続けられてくると、自分のことがそれほどできないと思っていなくても、学校の中で、あなたは最下位なのだと諭されてきています。学校というのは、そんな非人道的なことをしているところでもあるのです。テストをして、それをどれだけ覚えているかという事を知らせる事は大切ですが、相対評価でランキングする必要はありません。
このような不本意なランキングの中でセレクトされた大学生に、どのようにやる気を出してもらい、能力を引き出してあげるかについて考える必要があります。学生の学習のふりかえりに、次のような、心に残る文章を書いた人がいました。
MM 子どもがどうしたら勉強に興味を持つのか、私は考えました。実際私は勉強をするのがすごく嫌いで、今、アホになってしまいました。だから、勉強が嫌いな子ども達にどうすればいいのかが、分かる気がします。まず、目標を決めることが大切だと思います。「どこまで勉強するの」って思うことから、「今日は5頁」など目標を伝えてあげる。そして、できたら大げさにほめることも大切だと思う。褒められると素直にうれしい。興味が持てるように、私たちが工夫しなければいけない。(Re:心に残る、ふりかえりの一つになりました。教師のスタート地点に立てましたね。)
大学生にどんな力を付けるのか。特に、教職につく学生に付けてあげたい力とはどんなことか真剣に考えていく必要があります。ここでも、学習指導要領を教え込んで、それをテストして、選別することが大学の仕事ではありません。学生の能力を伸ばすこと、学ぶ意欲を高めること、真の学び方を身に付けさせて教職の現場に出てもらうことだと思います。テスト能力を高めるだけでは、そんな先生がまた再び、勉強嫌いな子どもを生産するだけになります。どんな学び方が楽しいか、深まるか、どのように自分で学ぶ学習環境を作るのかを深く考えさせることが、最優先です。
学校とは、どんなことをする機関なのでしょうか。物事を深く考える、自分の意見を持つことができる人になる、行動しながら学ぶことを身に付けることが大切です。社会や自然に働きかける、最初のスタートのエネルギーを身に付けることであって、知識を教えて選別する機関ではありません。寝ている学生は、どんどん落としていけばいいし、出席しない学生はこなくてよいのです。しかし、寝ていられない講義、出席したくなる講義をどうするかを、大学として真剣に考える必要があります。教師になる力を付けてあげたいという一心で、教職課程を構成すべきだと思うようになりました。
教職現場は、子ども達の一生がかかる、毎日が緊張した現場です。いい加減な教師はいりません。